仏教学
紀野一義
【プロフィール】


紀野一義(きの かずよし)
1922年山口県生まれ。東京大学印度哲学科卒業。宝仙学園短期大学学長を経て、現在、正眼短大副学長。今年40周年を迎える在家仏教集団真如会主幹。著書に『禅ーー現代に生きるもの』『法華経を読む』『心が疲れた時読む本』『白鳥の歌びと 坂村真民』『いのちの風光』『仏との出合い』など多数ある。

 

 

 

     


「自然が生み出した詩人 宮澤賢治」

インタビュー 紀野一義

仏教界の第一人者で幅広い活動を続けておられる紀野一義氏に〈宮澤賢治と自然との交感〉をテーマに語っていただきました。

「でくのぼうライフ」第15号(1996年)より転載

 賢治独特の法華経の読み方

――紀野先生はご専門が仏教学で、特に法華経の方がご専門なので、まず宮澤賢治と法華経の関係を教えて下さい。

紀野 よく女子大生などで宮澤賢治をやる人が手紙をくれますが、そういえば賢治研究家で法華経のことを書いている人は、あまりいないですね。賢治は法華経に基づいて詩を書いたとかよく言われるのだけど、みんな法華経は読まないんだよね、特に法華経というお経はふつうのお経を読むようにして読んでも、よくわからないんでね。僕もわかっているかどうかわからないけどね。
 ただ賢治さんが読んだというのは、ふつうの読み方とは違うなというのはよくわかる。

ーー賢治の読み方ってどんな読み方なのですか。

紀野 大脳で言えば、賢治は右脳がすごく発達した人だったから、直感的に読んでいくんですね。論理的にお経にこう書いてあるからというのではなくて、そのお経の中の幾つかの文句が、こうピカッと光ってみえるんじゃないかと。そしてそこからいろんなインスピレーションとかイメージとかね、そういうのが詩になっていったみたいですね。
 そういう読み方は本当はふつうの読み方とは違うんです。ふつう、仏教の人はキチンと最初から読んでいってキチンと一つ一つ解釈していくんです。賢治はそんなこと全然ない、全く自分風に読んでいる。それでもいいんです。いや、そのほうがいいかも知れなかったんですね。

ーーそれは賢治の作品を読んで感じられたことですか。

紀野 ええ、要するに自分のインスピレーションの根源みたいなものを法華経がもっていたのでしょうね。

ーーやはり賢治の一番奥にあるものは法華経だと思われますか。

紀野 たぶんそうだと思うんだけどね、正確にいうと、法華経的宇宙観あるいは、法華経的に宇宙を感じ取った、ということでしょうか。

 波動は残っている

ーー先生と宮澤賢治との出合いはいつですか。

紀野 それは昭和四十二年の十一月です。もうずいぶん前ですね。僕が四十四歳の秋。それまでもずっと宮澤賢治が好きだったし、「宮澤賢治と法華経」という本もかいていたのだけど、一度も花巻にも盛岡にも行ったことがなかったのです。僕は大体自分がその人を好きになったら、その人が住んでいた所とか歩いた所とかを歩かないと納得しない性分なんです。だから西行さんが好きになると西行さんが歩いた所全部歩いて、一遍さんも歩いて、明恵さんも歩いて、芭蕉も歩いて、そういう人たちの行った所、生まれた所、死んだ所、全部自分の足で歩いてきたんです。それで、宮澤賢治の生まれたところも行きたいなと思ったので、宮澤清六さんに手紙書いたんです。そうしたら清六さんが十一月に来てくれっていうので、それで若い男性二人連れて車で花巻までふっ飛んでいって清六さんに会ったのが始まりです。

ーーなぜ、その人のいた所を歩かないと気が済まないのですか。

紀野 「波動」とか「気」とかいうものが残っていると思うんです。その人は非常に強烈な気を発散していたわけで、そのウェーブ(波動)というものはなくならないから、ですから偉いお坊さんが修行された所を歩いてくると、僕はものすごく波動をもらっちゃうんです。それで宮澤賢治もそういう波動をもっていたから、そりゃ行かないとだめだなと思って、それでどこに行ったらいいかってことを清六さんに聞きに行ったんです。清六さんが色々教えて下さって、ほんとに行った甲斐がありましたよ。

 宮澤清六さんのこと

紀野 清六さんの所へ行ったら、奥さん買物でご不在、清六さん一人でいらっしゃって、最初りんごをむいてくれました。そのりんごに蜜といってね、色の変わったところがあって、僕は食べなかったんです。実は僕の友人に悪い奴がいて、りんごの芯に飴色になったとこがあるのは注射して甘くしたのだから食うなって言われてたんです。そしたら清六さんが「何で食べないのですか」って。「だって色が変わっているじゃないですか、これ甘くするんで注射したんでしょ」って言ったら清六さん「あなたバカですね、これは蜜と言って、木で熟したのでないとないのですよ、食べなさいよ」って言って、それで食べたらおいしくてね、すぐ無くなっちゃった。それからこくわという、うずらの卵みたいなこれはめずらしい、花巻の山奥で獲れるんですよ、それが出てきたから、どうも気持ち悪くて食べなかったんです。「紀野さん、どうして食べないのですか」って言うから「だって気持ち悪いじゃありませんか」って言うと、「あなたバカですね、これは、こくわといってね、花巻の人だって知らないんですよ。おいしいから食べなさい。」これ食べたらおいしくてね、これが清六さんとのおつきあいの始まり。


それから清六さんが「紀野さん、あなたは何が見たいんですか」って、「何も見たくない」って言うと「え、僕のうちに来る人はね、みんな何か見たがるんですけどね。あなたは変わってますね」って言うから「僕は見たいんじゃない、宮澤賢治の歩いた所を歩きたいんだ」って、それで「そうですか、でも、隣の部屋に、賢治の書いた詩の原稿、用意してあるんですけど」「それじゃ見せて下さいよ」と、まあ、こんな風にしておつきあいが始まったんです。すっかり仲良しになっちゃったんですよ。
 次の日、どしゃぶりの中を高村光太郎の山荘に行ったんです。ところがお昼になったら日本晴れになって、あんな日めずらしいね。それでこんな日は清六さんと一緒に歩こうと、また清六所へ戻ったんです。お天気だから、どこか行きましょうと言うと、「そうですね、今日はたぶん成島がいいですね」というんです。私は知らなかったんですが、成島の毘沙門さまっていうのがあって、賢治に「毘沙門天の宝庫」というすごい詩があるんですよ。いい所だからって話していたら奥さんが、あそこは山だから今日みたいな日は雨が降ったからあぶないって言うんです。そしたら清六さん「ああ、じゃ成島はやめましょう。では紀野さん行きましょう」って、僕の車の助手席に乗り込んでくるんです。だから「清六さんどこへ行くのですか」って言ったら「成島ですよ」「今、行かないって言ったじゃないですか」「ああ言わないと家内が心配するから」って言って、それで成島へ行ったんです。途中二股になったとこで道が分からなくなった。そしたら清六さん、ものすごいぬかるみの中を靴のままでどんどんおりていって、工事の運転手の人に聞くんです。道は二つしかないんで、きかなくてももう一本の道の方に決まっているのにね。

 空とススキ ―― 成島の毘沙門天

紀野 そうやって山の下に着いたんです。急な坂だからカメラだけ持って登って行きました。清六さんがソフトをかぶってね、ポケットに手をつっ込んで、宮澤賢さんの治の写真にあるでしょ、そっくりなんだね。「へぇぇ、こりゃ宮澤賢治だ」って思いましたね。
 坂の途中まで行ったら、急に清六さん上を見上げてね「ああいいな、しぇいしぇいするな」って言ったんです。何が「しぇいしぇい、だ」って、上を見上げたら、そこは朴の林で、朴の葉っぱがちょうど二メートルぐらいポッカリ空いていて、まっ青な空が見えるんですよ。朴は紅葉しているし、そしてまっ青な空でしょ、「ひぇぇ、ちくしょう」って。僕はきれいなものを見ると「ひぇぇ、ちくしょう」って言うわるい癖があるんでね。二人で「ああいいなあ、しぇいしぇいするなあ」「ひぇぇ、ちくしょう」といいながら上まで行った。
 僕は毘沙門さま、初めて見ましたよ。そしたら変なおじいさんが出てきてね、「ウニャウニャ」ってチベット語みたいにしゃべるでしょ、清六さんもチベット語みたいにしゃべるんで、僕には全然わからない。「何言ってるんですか」って聞いたら、おじいさんは、「私はここのそうじをする役なんだけど、二、三日お天気が悪かったんでおそうじしてなくて申しわけない」と言ったっていうんだけどそんな風にはきこえなかったね。それで毘沙門堂に入ると、この部屋の天井よりも高い木の仏像ですが、それは昔赤痢やチブスが流行ると、かからないように仏さまに味噌をなすりつけた、そういう仏さまがあるんですよ、それを拝んだり、あたりを眺めたりしていると、お堂のうしろに千年杉があってね、それが「ゴオーッ」といって揺れるんですよ。それでまた「ひぇぇ、ちくしょう」ですよね。それで戻ってきたんです。
 成島の山の上まで行く途中、山脈と平野が全部見えるんですよ。それが何というか、きれいというか……ススキの野原があって、ススキがこう僕に話しかけるんです。わからないけど、たしかに話しかけているんですよ。それで、ああ、そうか、賢治という人はこういうふうにして自然と話しながら、童話や詩をつくったんだなってことが、本当に肌でわかりましたよ。
 それから十年位たって或る大学の偉い文学の先生と、もう一人宮澤賢治の詩の翻訳をした人と三人で対談をしたんですが、僕がそのススキが話しかけてきた話をしたらね、その先生が「あなたは宮澤賢治に毒されていますよ」って。何を言いやがるって思ったね。それからしばらくしたら「あ、紀野先生ね、こないだ文学史の本を書いたんだけど、宮澤賢治のこと忘れちゃってね、で、四ページ位書けばいいかナ」って言うんですよ。僕はびっくりしちゃってね、日本文学史書くのに宮澤賢治を落とす人も落とす人ね、あと四ページで宮澤賢治が済むと考えるのが不思議でね。そういう人多いですね。それじゃ本当の賢治はわかりっこない。僕は、身体で感じてきたんですよ。やっぱり現地へ行って、心と体のすべてで感じて来なきゃ、絶対わからないよ。

 賢治作品のよみ方

紀野 五輪峠は、これも清六さんと一緒に、僕のファンだという地元のいすず自動車の販売所長の車で行ったんです。その人が雪が一メートルも積もっているのに、紀野先生の車じゃ絶対ムリだからつれてってくれるというので、その人の四輪駆動にチェーンを巻いて、すごい雪の中を登ったんです。いや、その時初めて五輪峠っていう詩が、よくわかりましたね。
 そうやって春夏秋冬、僕は五年位花巻へ行きましたよ。或る時には清六さんに誘われて、賢治祭にも行きました。ああいうの観ていると、賢治っていう人の世界がよくわかるね。
 部屋の中で童話や詩を活字で読むと、それは左の脳で読んでるわけ。どうしたって言語とか思考とか左の方にあるからね。そうすると右脳というのは働かない。僕はそちら側はあまり働かせないで、右脳ばっかりでこう見て歩いていたから、もちろん詩とか童話とかみんな読んで覚えているからね。だから賢治のことを僕が書く時は、右脳でほとんど書いている。

ーー賢治を好きだっていう人は、やはり右脳の方を働かす人が多いのではないでしょうか。

紀野 それはそうだね、みんな本当に同じことをやっている。
 賢治の詩は、特に非常に難解なところがあるから、そういう所を自分でわかろうとすると、もうそこで止まってしまうから、だから賢治の好きな人っていうのは、わからなくても「ええなあ」って通過しちゃうでしょ、僕はあれでいいと思うんですよ。何遍もそれをやっている内に、「待てよ」って考えて、わかったりするんでね。

ーー先生はそうやって賢治を読んでこられたのですか。

紀野 そうねえ、僕は旧制高校を卒業して東大に入った時に、東京の白山上という所に下宿したんです。その白山上の角の所に二軒本やさんがあって、一軒は古本やさんで、そこの古本ときたら、全部詩集なんです。僕はそこに入りびたりだった。学校から帰ると行って、おやじと話したり本を買ったりしてね、小遣いはほとんどそこの詩集を買って読んでいた。他の連中が、お前飯も食わずに詩集ばかり買ってどうするんだって笑っていましたよ。

ーー詩が大好きで、それで賢治と出合っていったということですか。

紀野 そうですね。詩が好きでなかったら宮澤賢治なんか、誰も読まないんじゃない。

ーー童話が好きで賢治が好きっていう人もいると思いますが。

紀野 童話というのも詩から出発しているからね。詩というのはイメージで、童話はイマジネーションだから。

ーーどういうことですか。

紀野 イメージとイマジネーションという言葉があるでしょ、日本語にはなかなか訳せないけども。心象風景っていいますよね、その時はイメージです。そのイメージをそのままどんどん活字に直していくと詩が出来る。でもそれでは誰も理解出来ないから、理解出来るようにもう一遍構成し直すわけです。ふつうの人がよくわかるように表現するには、一番いいのは子供の頃読んだ童話のようなかたちですね、だから「星の王子さま」だってものすごくハイクラスの内容なんですよね、でも表現は童話でしょ。賢治もやはりそういう方法をとったと思うんですよ。だから賢治の童話はイメージからつくられたイマジネーションの世界なので、童話を読む人は絶対詩を読まないとダメなんです。

 植物には心がある

ーー先程成島の所で、ススキが話しかけてきた体験をお話し下さいましたが、賢治の世界では植物や鳥や虫や鉱物や、皆話しますよね。

紀野 よくお花作っている人は、花に「元気になってよ」などと話しかけて水をやるでしょ、すると花は元気になる。あれは植物に心があるからですよ。大体木だって植物だって皆記憶もあるし判断も出来る。三上晃さんという変わった学者が、色々テストしているけど、木が文字も数字も識別できる。ただ「植物語」というのがないから、イエス、ノーで返事をさせるわけね。たとえば書体を違えた同じ字をみせると「イエス」のランプが点く。だから植物は識別能力をもっている。また別の人の記録ですが、杉林にキツツキが飛んでくると、一番外側にいる木が、キツツキが飛んできたという信号を後ろに送るんです。すると杉林全体の木の樹液が変わっちゃうんですって。にがい樹液に変わるからキツツキがつついて、すぐ飛んでいっちゃうんです。木はそういう警戒警報を発しているんです。
 その他にも、アメリカでは嘘発見器の学校のバクスターという校長さんが、植物に電極をつけて色々実験しています。最初サボテンに電極をつけてライターで火を点けようとしたら、オッシログラフの針が一斉に振れたとか。サボテンが「イヤダ、イヤダ」と言ったのでしょう。それから或る奥さんが子供のようにかわいがっている木に電極をつけた時は、その奥さんが生まれて初めて飛行機に乗って離陸した時間と無事着いてホッとした時間に、ちょうど針が振れたとか、バクスターさんは言うんですけどね。でも日本でも沢庵さんという人は植物に心があると、はっきり書いている。

ーー 植物にも心があって人と語り合える、交流できるということを賢治はわかっていたし、作品を通して教えてくれていますね


紀野 そうですね、大体宮澤賢治を好きだという人は、花も好きだし、川も山も好きだし、だから、ちゃんと会話しているんじゃないですか。僕みたいな人間でも多摩川に飛んでくる海鵜や、シギや、かもめや、鷺に愛されているし、花にも愛されているからね。

 宇宙運行プロジェクト

ーー先生のご著書の中で、宮澤賢治は大きないのちと出合っていたと書いておられましたが、植物と人間との出合い、語り合いも、やはり大きないのちとの出合いということですか。

紀野 僕が考えるのは、根源的ないのちというものがあって、それが植物を生かしたり人間を生かしたりしているということです。たまたま相手が植物になったり、こっちが人間になったりしているだけの違いで、そういう大きな力は植物には植物のいろんなやってほしいことがあるわけで、たとえば空気中に酸素を放出する仕事をしてほしいと思うから植物を作るし、だから人間には人間でやってほしいことがあるわけなんでしょ。
 これは天文学者の佐治晴夫さんとか理論物理学者が共通して言っていることですが、どうして地球が出来たか。それは地球という生命が生まれることが出来る星をつくって、そこに人間というものを生み出して、その人間に勉強してもらって、宇宙はどうして出来たか、そしてどのようになっていくのかということを人間に証明してもらいたいから、だから人間をこの世に生み出したと、これは皆共通してますよ。つまり大きないのち、それを神さまだとしたら、その神さまの大きな宇宙進化の計画の中で人間も必要があって生みだされたということですね。
 そういうことを理論物理学者もクリスチャンも仏教の人も皆考えている。だから植物と人間なんて区別なんか本当は無くて、等しくこれは大きな根源的ないのちの運行のプロジェクトの中にあるわけで、そういうことを考えると、植物と人間との間に交流できないはずはない。でも理論的にそういうこと言ったって、なかなかわかってくれないけども、宮澤賢治のように文学作品で言うと「ああ、そうだなあ」と共感して、やがて賢治が考えていたような世界に読者が入っていってくれるわけで、そういうことを賢治は考えていたのではないでしょうかね。

 なぜ賢治にはがすばらし自然く見えたのか

ーー賢治に惹かれるのは自然との交感のすばらしさと、もう一つ賢治の底に流れる他者への献身というか自己犠牲の愛の深さだと思うのですが。

紀野 そうでしょうね。なかなか人間は人のために生きるというより、自分のために生きたいからね。だからよくああいうこと出来るなあと思うけれど、賢治はもう生まれついた時からそういうふうに生まれていて、別に犠牲になるとか苦労するとかという気はなかったのではないですかね。自分の思うように生きたら、結局人のためになっていた、ということでしょ。

ーー賢治のそういう生き方と、大自然との交感とは、賢治の中ではどうつながっていたのでしょうか。

 紀野「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」というのが、結局彼の生き方で、そこから賢治のすばらしい世界は出てきている。そう賢治は言っているわけではないけれど、大勢の人の幸せを優先した賢治がこんなすばらしい作品を書いたと、すると人間というものは、大勢の人の幸せを優先すれば、他の人にはわからないすばらしい世界を今度は神さまがごぼうびみたいに見せてくれるんじゃないかと、誰だって考えるよね。皆、お金もうけたり、おいしいもの食べたり遊んだりだけじゃつまらないなあ、というのがどこかにあるんですね。それを賢治が実にあざやかに、ああいう広々とした世界で表現してくれた。賢治の作品読んでいたら少しでもそういうふうになれるんじゃないかって、やはり皆考えるんじゃないかな。僕なんかもそうだものね。同じように星みても川みても自然をみても、どうしてこんなに素晴らしくみえるだろうなって、それはいつも感じていますよ。

 自然はみせてくれる

紀野 僕は今年は木とか森に惹かれているけど、去年は鳥で、その前は水、毎年中心になるものは変わっているけど、そういうふうに自然のことやら人間のことやらよくわかるようになったのは、本当に賢治のおかげなんです。僕は去年は鳥に夢中で、元旦の朝早く多摩川の鳥を撮影したりしたのだけど、渡り鳥が竿になってきれいに飛ぶんですよ。それで、その辺でちょっとV字型になってくれるといいんだけどなあって思ったら、鳥の方で「ああ、こう?」ってなかんじで、ひゅうって変わってくれるんですよ。「へえーっ」ってびっくりしながら撮影したりして、鳥と会話出来るなあって感じを去年もったんです。賢治はごく自然に鳥と会話したり植物と会話したりしているけど、それは文学作品として書いているわけではなくて、実際に植物と会話していたのだと思うんです。僕たちはそれがなかなか出来ないから比喩的に考え、言うんだけどね。
 賢治という人は、ほかの人が見えない世界を五輪峠にいくと五輪峠が見せてくれたように思うんですよ、僕はそれはちゃんと経験したんですね。北海道の摩周湖は霧が有名なんだけど、いつ行ってもきれいにみえるんですよ。三回目の時、ものすごい雨が降って霧がすごかったんだけど、「見えなくていいから一番いい場所へ行きましょう」って同行のカメラマンに言って、そこで眺めてたんですよ。そしたらお芝居のカーテンが開くように、霧がすうっと晴れてきれいにみえちゃって、大変だったですよ。写真をバシバシ撮って、五分もなかったね、そしたら「もういい?」という感じで閉っちゃうんですよ。「でも第二展望台があるから、行ってみよう」って登って行ったら「もう一遍みる?」っていうかんじで、またすうって開いちゃって。だからそれは自然に愛され始めると、そういうことは次々起こる。彦根のプリンスホテルの展望レストランでも、雨がカーテンを端から端へ引かれるように晴れて、また「もういい?」ってかんじで閉じて、これは証人が沢山いて、これはどう考えても不思議だって、そういうことってあるんです。
 去年の秋、十和田のブナの原生林に行ったんだけど、あんな美しい原生林初めてみましたね。そこに樹令四百年のお化けみたいなブナの木があるんで、その木のおなかを叩いて、来年の春緑がでてくる時また来るよって約束したのでね、約束したから絶対行かなきゃいけない、白神山地にも行きたい、と思っているんです。行くと白神山地はすごいところだから、何をみせてくれるのか、そしていろんな世界がわかってくるんじゃないかと、今からワクワクしているんです。
 自然がそういうふうに人にみせてくれるということは、またみせてもらった人は、いっぱいいると思うんですよ。ですけど、自分がみせてもらった世界を、みせてもらったお礼に、お礼と言ったらおかしいけれど、お礼にすばらしい詩で表現できたのは賢治くらいですね。僕らはよかったって言うだけで。僕は実証主義者だから、どんなによかったかというのを、全部ビデオで撮ってあるんですよ。ですから皆「すてきだなあ」ってことになるんだけど、それを賢治は詩や童話で表現した。だから人間ていうものは自分がみてよかったなあっていうだけじゃだめなんで、どのようによかったのかということを人に知らせないといけないので、それもやはり人のためにすることだからね、それが大切だと思う。それを賢治はすばらしいレベルでしたわけですね。

ーー賢治にはこの現実の世の中をよくしたい、みんなが幸せになってほしいという強い願いがあったから、「美しい自然をみてよかった」で終る我々とは全く違うのですね。

紀野 そのとおりですね。大勢の人を幸せにするということと、自然に愛されてこの世の美しさというのは見尽くすまでやっちゃったということは重なってるんですね。

 デクノボーとは

ーー賢治はデクノボーになりたいと言っていましたが、デクノボーとは何ですか。

紀野 いや、デクノボーというのはすごく難しいですけどね。仏教で言えば凡夫という言葉もあるし、菩薩という言葉もある。菩薩というのは、悟りを求める人というのが本来の意味で、それから大勢の人の幸せを優先するというのが菩薩なんです。凡夫というのはごく普通の人間という意味で、だからデクノボーは、ごく普通の凡夫であると同時に菩薩であるというのでしょうね。仏教の考え方では、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、声聞、円覚、菩薩、仏、という十段階あるんです。普通の人間というのは丁度まん中辺で、菩薩は上から二番目にいるわけですよね。それは仏さまの手前で仏さまにならない、なったら他の人を救ったりなかなか出来なくなるから、だから絶対菩薩のままでいる。そして本来の自分は凡夫なのだけど、凡夫も凡夫、地獄や餓鬼や畜生という世界もちゃんと自分はもっていて、泣いたり笑ったりしている、だけども菩薩なんだと、自分は本当にどうしようもない人間だけども、最後に神さまや仏さまがよくやったですねえと言ってくれるような世界も、ちゃんともっている。デクノボーってそういうのではないかね。でも、他の人の役に立たなくちゃ、賢治のいうデクノボーにはならない。



ーー賢治の言ったデクノボーというのは、その凡夫と菩薩と両方もったものですか。そうなりたいと賢治は強く思っていたのですね。

紀野 だから他の人からすばらしい人ですねえなんて、言われたくないんですよ。このまんまでいいと。

ーー人は普通立派になりたいとか悟りを得たいとか思いますが、賢治は自分は立派にならなくていいと思っていたのですね。

紀野 人間というのは、生まれつきもう十の世界を全部具えているわけだから、凡夫であって仏もあり菩薩もあり天もありという世界だから、一生懸命努力して、それで上へ上へとあがっていこうという考え方じゃないんですよ。それは権力志向とか階級意識とかいうもので、元来十界を、お互いに備えている、上から下へとかいうのではなくて、円環みたいに絶えず流動しているというような意識があったのではないですか。

 妹への愛と修羅意識

ーー賢治の中には修羅であるという意識もあったのでしょうか。

紀野 やはりそれは賢治がもって生まれた性格、たとえば女性に対しては、どうしても距離をおきたくなる、その原因は妹とし子さんにあったと僕は思うんですけどもね。妹さんに対する愛情がすごく深かった、しかもとし子さんは早く死んでしまったから、賢治は妹に対する純粋な愛を失わないようにするためには、他の女性に近づかないようにしようと決めていた風がありますね。で、そういう考えはやはりちょっと頑固な考え方ですよね。でも自分ではどうしようもないんだ、だから俺は修羅なのだと。自分の中にある修羅とは悪魔ですからね、どうしても自分の中から悪魔性というのは抜け出すことが出来ない、でも阿修羅も最後は仏さまのために働くのだというような気持ちもあるんでしょうね。だから人に、すばらしい人ですねなんて言われるのが、一番苦手だったのではないかな。どうも人にあんまり会わないようにしたという感じが、だんだん晩年になるに従ってでてきますね。

 賢治の詩に感動するわけ

ーー手帳にそっと書き留めていた「雨ニモマケズ」はなぜか読むと感動しますね。

紀野 人間というのは、辛い生き方をする時には自分に向かって絶えず語りかけ話しかけていないと、やり切れないところがあるんですね。僕は大学二年で戦争に行ったから、人間の極限状況というのは知っています。しかも僕は部下をもっていたから、部下を殺したくない、自分も死にたくない。戦場で人間は陰気になってくると死んじゃうんですよ、不思議にね。だから陰気になりかけてくると、「お前大丈夫? もっと首をもちあげていかんとあかんだろ」と自分に言うわけですよ。部下に対しても「何だ、その顔は」とやるわけです。そうやって自分を励ましたり人を励ましたり、人に励まされたりということをやっていかないと、人間というのはなかなかやっていけないんですよ。夫婦だって「いつもよくやってくれてありがとう」とか「いつもおいしいね」と声を掛けられないと、なかなかうまくいかない。

ーー賢治は、本当にギリギリの生き方をしていたから「雨ニモマケズ」を書いたように、絶えず自分に声をかけていたのでしょうか。

紀野 ぼくはそう思うね。 

ーーでも賢治のそういう言葉を読むと、なぜか私たちも感動してしまいます。

紀野 そうですね、何しろ一生懸命でしたからね。僕は妹さんが死ぬ前後の時の詩が大好きなんですが、それは僕に三つ年下の妹がいて、非常に仲がよかったのですが、十九歳で原爆で死んでしまったので、だから僕の胸の中にはいつも痛みがあるわけですよ。自分はこんなになが生きしているのに、妹は十九歳で死んでしまった、だから賢治がとし子を悼む気持ちと共通していて、詩を読むと、人がつくった詩を読んでいるような気がしないんですよ。

ーー共通したご体験があれば、それは全く違うのでしょうね。しかし誰がよんでもあの臨終の日につくられた三篇の詩や挽歌群は、非常に感動しますね。

紀野 人間性の美しさというか、そういうものを感じさせますよね。でも、どちらにしても自分が体験していないようなことは、なかなか共感できないから、だから今賢治が好きだという若い人も、これからの人生で色々経験していくから、経験していく度に賢治がもっていた世界の別の部分、他のところが非常に共感されていくのではないかしらね。だから年をとっていけばいく程、賢治という人は強く自分の中に生きてきますよ。
 あの人は不思議な人で、あんな若死にしたのに、八十や九十まで生きた人のような詩を書いていますよね。年令が全く関係ないのです。たとえばリルケとか西洋の詩人だと二十代の詩だとか三十代の詩だとか言うわけですが、賢治の場合はいつ始まっていつ終ったのかわからないくらい、いつも同じ世界があるんですよ。年令によって多少表現が違うけれど、こういう詩は年をとらないと書けないという詩がない、その反対に、こんなに若くてこんな詩がどうして書けたのだろうというのはありますが。

 東北の天地が生みだした人

ーー宮澤賢治の一番の魅力を何と言ったらいいでしょうか。

紀野 うーん、たとえば仏教だと仏さまがこの世に送ってきた人を如来使と言うんですが、如来さまのお使いですね。キリスト教でも神さまのお使いのようにこの世に顕れた聖者というのが何人もいるんですね。それと同じように賢治という人は、東北の自然が自分の姿を人々に伝えてほしいから、賢治という人を花巻という天地に生みだしてきたという感じが僕はする。特に北上川なんて川をみていると、余所にあんな川はないよね。多摩川とも違うし、僕が小さい頃みた太田川とも違う。あれはすごい川ですね。だからもしかすると、北上川の川の神さま、河伯というのがいて賢治を生み出した、山の神さまがいて賢治を生み出した、要するに東北の天地が宮澤賢治という人を生みだして、自分たちの世界を大勢の人に伝えてほしいというそのために賢治を世に送り出したと、そんな感じが一番するね。



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