これは、賢治の有名なことば「小作人たれ、農民劇をやれ」の、それを語ったときのことが、贈られた本人である松田甚次郎氏の手で書かれているものです。賢治がこのことばをどんな思いで語ったかが臨場感をもって感じられる文章です。
鳥越倶楽部の設立
松田甚次郎は、昭和二年四月に帰郷し、父より六反歩の田地を借り小作農をはじめました。はじめは家族の反対を受けましたが、それをはねのけて農民の道を歩み始めました。そして賢治に誓った農民劇の実現のために同年、故郷の同級生や下級生らと鳥越倶楽部を結成します。この会は、
一・天皇陛下の御光の下に、鳥越部落彌栄に全力を尽さん
二・我等は郷土文化の確立、農村芸術の振興に努めん
三・我等は農民精神を鍛錬し、以て農民の本領を果たさん
をスローガンに、休日に集まって農業について勉強したり、ドイツのワンダーフォーゲル式に山や谷、近隣の部落を歩いたりする、会費も会則もない会です。その活動の中で甚次郎は次々と農民劇を発表していきます。その中でも代表的なものが、初めて上演した「水涸れ」でした。
「水涸れ」の上演
甚次郎が小作人になった年、村を干ばつが襲い、苗は枯れんばかりになりました。鳥越の新田川は水が枯れやすく、上流の水争いがひん発しました。「百姓は欲ではやれぬ」と教えられたが、この経験があって初めて村の人々の苦労を身をもって理解し、その偉大さに心から敬虔の気持ちを抱きました。
お盆が近付いてきた頃、鳥越倶楽部でお祭りの時に芝居を上演しようということになり、甚次郎は初めて経験した水掛と村の夜のことを題材に、台本を書きました。出来上がったもののなにか物足りなさを感じた甚次郎は、思い切って宮沢賢治を訪ね指導を受けました。賢治はいろいろとアドバイスし、その作品に「水涸れ」という題を付けてくれました。さらにクライマックスでは篝火を焚くようにとも指導しました。
帰郷した甚次郎は早速練習を始めました。二十六回十八日間、二十数名の若者はすべてを神にゆだねてひたすらに稽古に打ち込みます。そして上演日は、お祭りの間は許可が下りず、予定よりも五日はやい昭和二年九月十日に上演することになりました。
いそいで舞台づくりが始まりました。まず舞台は、上演をする神社の北側の小山のスロープに自分たちで土舞台を築き、照明は櫓を組み、石や木を運んでは立て、電灯は二百ワットでブリキ缶を反射鏡に用いて、色ガラスで昼、夜、夕焼けの照明としました。二晩かけて、すべてが手作りの舞台が出来上がりました。
いよいよ当日。会場には六百余名の村人が集まりました。
まずは甚次郎が舞台に上がり、口上を述べました。「鳥越の皆様方よ、私ども倶楽部は芝居をやるために結成したのではない。鳥越を、神社を中心として住み良い美しい村にしたい。そして若い者も、大人も、仕合せに、たのしい日々が送られるようにしたいと願う念願から、まず私どもの身を修めつつ楽しみつつ、また皆様方に私どもの心もちをわかっていただき、さらに協力していただき、この尊い農業を心から精出して日本のために尽くしたいのであります。今晩の私どもの芝居『水涸れ』も、無意味に河原で水喧嘩をする有様を舞台に表したのではなく、将来水涸れに対してはこうしたらよいのだろうということを、皆さんにわかっていただきたいのであります。面白いときには笑ってください。涙の出るような場面には心ゆくまで涙を流して泣いて下さい。そうだ、ほんとうだ、と感じたときには、そうだ、ほんとうだ、と声を挙げて叫んでください。(後略)」
午後七時半、照明がついて、まず田園の水掛のけんかの場面。本家分家の水掛け論や水どろぼうの様子などが次々と演じられ、お互いの自分勝手さが浮き彫りになります。第三幕では、賢治の発案した篝火が水番の人たちによって盛んに燃やされ、あたかも利己主義が遂に炎と化して真っ暗闇に延々と燃えるようで、周囲は興奮に包まれました。
照明がぱっと消され第三幕が幕となり、バイオリンとハーモニカと笛の合奏による音楽が響く中、歌が歌われます
──私たちの人生とは、一生土に親しんで土に死んでいくものだ。その使命の何と尊いことか。水涸れに苦しみ、雨の降る中を身を粉にして働く私たちが、いま目覚め、いま立ち上がらなければ、村の幸せも、この世の中の幸せも訪れることはない。理想の村を願い、若い私たちの胸は炎は燃え上がる──
第四幕。村の主だった人々による対策協議会の様子が描かれます。盛んに議論が出て、次第に協調へと話が進んでいきます。結論は、お互いに水盗みをやり、水番をやり、喧嘩をする時間と労力で、水源近くに貯水池を築いて、春先の雪解け水を蓄えておき、水涸れの時期に流そうということになりました。要はお互いが利己主義で相殺するか、共同で助け合うかの精神問題なのだと。お互いに幸福を望むなら、互助協同の旗の下に、貯水池築造に邁進すべきだと──そして最後の幕が靜に下りました。
閉幕は十一時。その晩のうちに片づけを済ませ、翌日は、みんないつも通り朝早くから稲刈り準備をはじめました。ちなみに、この最初の劇の費用は、一円八十銭の電灯料金のみ。大自然を背景にして、自分たちの普段使っている野良着のままでやったからです。
何から何まで手作りの公演でした。甚次郎はこの芝居で、第四幕で語られた「共同で助け合う精神」をみんなの心のしみこませたかったのだといっています。そしてその願いは実を結び、この芝居の上演から十年目に、本当に貯水池を建設することが出来たのです。私はこの事実を知ったとき、賢治のことば「思想はエネルギーである」とは真実のことなのだと実感しました。甚次郎は貯水池を作ることを目的にこの芝居を上演したわけではありません。賢治さんが言われた「教化ということと、熱烈さと、純情さと、美を没却してはならない」という言葉を信じ、みんなで助け合いながらみんなが幸せになることを願って、誠心誠意、素直な心で上演しただけです。そして誰にでもわかる芝居という形で本当に大切なことを熱意を持って伝えたから、その心が村の人たちの心を動かす原動力になり、何年かかかったけれど実を結ぶ結果になったのです。今まで単なる娯楽、また現在においては自己表現のためにあると考えられがちだった演劇が本当に人を、世の中を変えることが出来るということがこれで証明されたのです。それこそが、賢治さんが考えていた演劇というものの本当の意義だったのではないかと思います。
農民芸術とは宇宙感情の 地人 個性と通ずる具体的なる表現である
そは直観と情緒との内経験を素材としたる無意識或は有意の創造である
…
そは人々の精神を交通せしめ その感情を社会化し遂に一切を究竟地にまで導かんとする
(農民芸術の本質)
甚次郎の考えた農民劇の要項
この公演の成功を期に、甚次郎は次々と農民劇を上演していきます。弾圧や迫害も受けたりしましたが、禁酒の意味を加味した劇「酒作り」や、満州への移民の必要性を訴えた「移民劇」、村の自給経済の確率と消費生活の合理化を図るために組合を結成する必要性を訴えた脚色劇「壁が崩れた」等、年に一作ぐらいのペースで上演を続け、十年間で三十回以上の上演を行いました。それぞれの芝居がまた、村の生活にいい意味で影響を与えていったことはいうまでもありません。
そして後に、甚次郎は農民劇の要項をこのようにまとめました。
一,われわれの農民劇は農村娯楽の整頓と綜合、すなわち芸術化を目標とすることを上げねばならぬ。
二,農民の寂しさと退屈とを救う社交機関にしたい。
三,農村人の教化訓練に役立たせ、結局に於いて農村文化の向上に帰一せねばならぬものと信ずる。
しかしながら、その目的意識は決してとらわれ足る頑固、執着ではなく、いつも民衆芸術と協調する充分なる余地の存するものでなければならない。最初は一般の観衆は無頓着で、単に興味本位で出発するのが自然である。やがて彼らがいつとはなしに、十年かかっても良いから、その急所を自覚したとき、それが農民劇としての目的達成なのである。(「土に叫ぶ」より)
この考え方は、賢治が「農民芸術概論」で述べていることのさらに実践的なことではないかと思います。特に三については、一つの芝居を上演するのに、それに関わるすべての人間がそれぞれの役割を責任を持って、協同の下に活動しなければ良いものはできないと断言し、また村にはたくさんの才能を持つ人たちがいるのだから、それをすくい上げ、のばしていくことが大切だとも言っています。賢治も甚次郎に語ったことばの中や、「農民芸術概論」でも、同じようなことを言っています。
職業芸術家は一度亡びねばならぬ
誰人もみな芸術家たる感受をなせ
個性の優れる方面に於て各々止むなき表現をなせ
然もめいめいそのときどきの芸術家である
創作自ら湧き起り止むなきときは行為は自づと集中される
そのとき恐らく人々はその生活を保証するだらう
創作止めば彼はふたたび土に起つ
ここには多くの解放された天才がある
個性の異る幾億の天才も併び立つべく斯て地面も天となる
(農民芸術の産者)
甚次郎が賢治の「農民芸術概論」をどれだけ知っていたのかはわかりません。でも本当に、甚次郎が賢治のことばを生涯忘れず、村のために、ひいてはすべての人のために生き続けたのだということを実感します。そして甚次郎の実践してきたことを知るたびに、賢治が語り、書き記してきた「世界がぜんたい幸せになる」方法とは、こういうものなのか・・・と思わずにいられないのです。
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