農民劇
「小作人たれ 農民劇をやれ」という賢治の言葉を生き抜いた  松田甚次郎
 
   
[ プロフィール ] 

明治42年 3月 3日 山形県最上郡稲船村(現新庄市)大字鳥越字的場に出生
大正15年 4月    盛岡高等農林学校別科入学
昭和 2年 3月 8日 盛岡高等農林学校別科終了。宮沢賢治を訪ね、生涯の教訓を受ける。
昭和 2年 4月    帰郷。父より六反歩の田地を借り小作農となる
            鳥越倶楽部を結成する
昭和 2年 9月    鳥越八幡神社境内に土舞台を作り、農村劇「水涸れ」を公演
昭和 3年 春     茨城県友部の国民高等学校へ入学
昭和 4年 1月    国民高等学校第一部終了
            麹室を造る
昭和 4年 3月    鳥越倶楽部に女子部を結成する
昭和 5年 冬     母の会を結成、母子の保健厚生にのり出す
昭和 6年 2月    大日本聯合青年団指導員養成所第一回生として入所
昭和 7年 5月    結婚、鳥越八幡神社にて、甘酒で挙式
昭和 7年 8月    集落の醤油・味噌の麹造りを一手に引き受ける
昭和 7年 8月14日 元営林署の番小屋に最上共働村塾を設立。二週間の青年修養講座を開く
昭和 7年12月    全国篤農青年大会に山形県代表として出席

 

昭和 8年 1月    有栖川宮記念更生資金第一回拝受
昭和 8年 3月    間宮氏や塾生五名と共に、「最上共働村塾」塾舎建設に着手
昭和 8年 4月    塾舎完成
昭和 8年10月    鳥越隣保館落成
昭和 8年       農繁期託児所を開設
昭和10年 6月    農繁期共同炊事を始める
昭和11年 6月    共同浴場建設
昭和12年 1月    新庄町平和館で、「農村劇と映画の夕」を開催
昭和13年 3月    日本共働奉仕団活動開始
昭和13年 5月    「土に叫ぶ」出版
昭和14年 1月    「土に叫ぶ館」(塾舎)落成
            鳥越賢治の会設立
昭和14年 3月    「宮沢賢治名作選」出版
昭和17年 3月    「野に起て」出版
昭和17年12月    「続・土に叫ぶ」出版
昭和18年 7月 9日 雨乞祈願のため、八森山登山。登山の途中体調をくずし、中耳炎再発
昭和18年 8月 4日 午前9時楠病院で死亡。享年35歳


賢治の意志を継ぐ者─松田甚次郎の仕事

北山裕子

 


松田甚次郎は明治四十二年三月三日、山形県最上郡稲船村(現新庄市)に生まれました。そして賢治が花巻農学校を依願退職し、羅須地人協会を設立した大正十五年に、賢治の母校である盛岡高等農林学校の別科へ入学します。甚次郎が賢治と出会うきっかけになったのは、大正十五年四月一日の岩手日報朝刊に掲載された「新しい農村の建設に努力する、花巻農学校を辞した宮沢先生」という見出しにはじまり、「農村経済の勉強と耕作をし、生活、すなわち芸術の生きがい送りたい」と賢治が語った羅須地人協会設立に寄せた記事でした。
 甚次郎は賢治の教え子ではありません。それにも関わらず、甚次郎は誰よりも賢治の教えを信じ、実践し、形として現していきました。甚次郎がひとりの農民として本気で村のために、世の中のために尽くしていこうと決意したのは、まさにこの賢治の「小作人たれ 農民劇をやれ」ということばがあったからでした。ここでは、主に松田甚次郎の農民劇の実践に注目しながら、賢治が甚次郎に託したもの、そして甚次郎自身が受け取ったものとは何だったのかをご紹介します。

 

まずは、甚次郎が強い影響を受けたという、卒業にあたって賢治が贈った言葉をお読み下さい。(読みやすくするために現代仮名づかいにしています)

松田甚次郎 著 「土に叫ぶ」より 一、恩師宮澤賢治先生

先生の訓え  昭和二年三月盛岡高農を卒業して帰郷する喜びにひたっている頃、毎日の新聞は、旱魃に苦悶する赤石村のことを書き立てていた。ある日私は友人と二人で、この村の子供達をなぐさめようと、南部せんべいを一杯買い込んで、この村を見舞った。道々会う子供に与えていった。その日の午後、御礼と御暇乞いに恩師宮澤賢治先生をお宅に訪問した。
(中略)お別れの夕食に握り飯をほお張りながら、野菜スープを戴き、いいレコードを聽き、和かな気分になった時、先生は厳かに教訓して下さった。この訓えこそ、私には終世の信條として、一日も忘れる事の出来ぬ言葉である。先生は「君たちはどんな心構えで帰郷し、百姓をやるのか」とたづねられた。私は「学校で学んだ学術を、充分生かして合理的な農業をやり、一般農家の範になりたい」と答えたら、先生は足下に「そんなことでは私の同志ではない。これからの世の中は、君たちを学校卒業だからとか、地主の息子だからとかで、優待してはくれなくなるし、又優待される者は大馬鹿だ。煎じ詰めて君たちに贈る言葉はこの二つだ──
小作人たれ
農民劇をやれ」
と、力強く言われたのである。語をついで、「日本の農村の骨子は地主でも無く、役場、農会でもない。実に小農、小作人であつて将来ともこの形態は変わらない。不在地主は無くなっても、土地が国有になっても、この原理は日本の農業としては不変の農組織である。社会の文化が進んで行くに従って、小作人が段々覚醒する。そして地位も向上する。素質も洗練される。従って土地制度も、農業政策も、その中心が小作人に向かって来ることが、我が国の歴史と現有の社会動向からして、立証できる。そして現在の小作人は、封建時代の搾取から、そのまま伝統的な搾取がつづけられ、更に今日の資本主義的経済機構の最下層にあつて、二重の搾取圧迫にあえいで居るのだ! この最下層の文化、経済生活をしのびつつ、国の大道を躬行し、食糧の産業資源を供給し、さらに兵力の充実に貢献して居るではないか! なんと貴く偉大な小作農民ではないか! 日夜きゅうきゅうとして、血と汗を流して、あらゆる奉公と犠牲の限りを尽くしているる。ところがこの小作人に、真の理解と誠意を持つものは、一人もないのだ。皆んな卑しんで見下げて、更に見殺そうとまでしているのだ。こんなことで日本の皇国が栄え続けて行けるか。日本の農村が真の使命に邁進して行けるか。君達だって、地主の息子然として学校で習得したことを、なかば遊びながら実行して他の範とする等は、もっての他の事だ。真人間として生きるのに農業を選ぶことは宜しいが、農民として真に生きるには、まず真の小作人たることだ。小作人となって粗衣粗食、過労と更に加わる社会的経済的圧迫を経験することが出来たら、必ず人間の真面目(しんめんもく)が顕現(けんげん)される。黙って十年間、誰が何と言おうと、実行し続けてくれ。そして十年後に、宮澤が言った事が真理かどうかを批判してくれ。今はこの宮澤を信じて、実行してくれ」と、懇々と説諭して下さった。私共は先覚の師、宮澤先生をただただ信じ切った。
次に農民芝居をやれということだ。これは単に農村に娯楽を与えよ、という様な小さなことではないのだ。我等人間として美を求め美を好む以上、そこに必ず芸術生活が生まれる。殊に農業者は天然の現象にその絶大なる芸術を感得し、更らに自らの農耕に、生活行事に、芸術を実現しつつあるのだ。ただそれを本当に感激せず、これを纏めずに散じている。これを磨きこれを生かすことが大事なのである。若しこれが美事に成果した暁には、農村も農家もどんなにか楽しい、美しい日々を送り得ることであろうか──と想う。そこから社会教育も、農村の娯楽も、農民啓蒙も、婦人解放も、個人主義打開も、実現されてくる。村の天才、これは何処にも居る。歌作りの上手な人、歌を唄うことの上手な人、踊りの上手な人、雄弁家の青年、滑稽の上手な人等々、数限りもなく居るのだ。これを一致させ、結び綜合し、統制して一つの芝居をやれば、生命を持って来るのだ。その生命こそあらゆる事業をも誕生せしめ、実現させて行くことになるのである。喜びながら、さんざめきながら、村の経済も、文化も向上して行く姿が見えるではないか。
そしてこれをやるには、何も金を使わずとも出来る。山の側に土舞台でも作り、脚本は村の生活をそのまますればよい。唯、常に教化ということと、熱烈さと、純情さと、美を没却してはいけない。あく迄も芸術の大業であることを忘れてはならいないと懇々教えられた上、小山内氏の『演劇と脚本』という本をくださった。そしてこれをよく研究して、青年達を一団としてやる様にと、事こまごまとさとされた。つい時の過ぎるのを忘れ、恩師の温情と真心溢るる教訓に、首を垂れたものであった。
考えて見れば本当に今の農村の指導者は、一人として小作人に成り切った心持でやって居る者はない。農民劇など考えもつかぬ。歌や俳句ばかりが、唯一の芸術と考へるのが一般の認識だ。十年先のことを明察して居られる恩師の偉大さが、故人となられて一入(ひとしほ)深く感ぜられ、愛慕の念にかられるのである。



 これは、賢治の有名なことば「小作人たれ、農民劇をやれ」の、それを語ったときのことが、贈られた本人である松田甚次郎氏の手で書かれているものです。賢治がこのことばをどんな思いで語ったかが臨場感をもって感じられる文章です。


鳥越倶楽部の設立
 松田甚次郎は、昭和二年四月に帰郷し、父より六反歩の田地を借り小作農をはじめました。はじめは家族の反対を受けましたが、それをはねのけて農民の道を歩み始めました。そして賢治に誓った農民劇の実現のために同年、故郷の同級生や下級生らと鳥越倶楽部を結成します。この会は、
一・天皇陛下の御光の下に、鳥越部落彌栄に全力を尽さん
二・我等は郷土文化の確立、農村芸術の振興に努めん
三・我等は農民精神を鍛錬し、以て農民の本領を果たさん
をスローガンに、休日に集まって農業について勉強したり、ドイツのワンダーフォーゲル式に山や谷、近隣の部落を歩いたりする、会費も会則もない会です。その活動の中で甚次郎は次々と農民劇を発表していきます。その中でも代表的なものが、初めて上演した「水涸れ」でした。

「水涸れ」の上演
 甚次郎が小作人になった年、村を干ばつが襲い、苗は枯れんばかりになりました。鳥越の新田川は水が枯れやすく、上流の水争いがひん発しました。「百姓は欲ではやれぬ」と教えられたが、この経験があって初めて村の人々の苦労を身をもって理解し、その偉大さに心から敬虔の気持ちを抱きました。
お盆が近付いてきた頃、鳥越倶楽部でお祭りの時に芝居を上演しようということになり、甚次郎は初めて経験した水掛と村の夜のことを題材に、台本を書きました。出来上がったもののなにか物足りなさを感じた甚次郎は、思い切って宮沢賢治を訪ね指導を受けました。賢治はいろいろとアドバイスし、その作品に「水涸れ」という題を付けてくれました。さらにクライマックスでは篝火を焚くようにとも指導しました。
帰郷した甚次郎は早速練習を始めました。二十六回十八日間、二十数名の若者はすべてを神にゆだねてひたすらに稽古に打ち込みます。そして上演日は、お祭りの間は許可が下りず、予定よりも五日はやい昭和二年九月十日に上演することになりました。
いそいで舞台づくりが始まりました。まず舞台は、上演をする神社の北側の小山のスロープに自分たちで土舞台を築き、照明は櫓を組み、石や木を運んでは立て、電灯は二百ワットでブリキ缶を反射鏡に用いて、色ガラスで昼、夜、夕焼けの照明としました。二晩かけて、すべてが手作りの舞台が出来上がりました。
いよいよ当日。会場には六百余名の村人が集まりました。
まずは甚次郎が舞台に上がり、口上を述べました。「鳥越の皆様方よ、私ども倶楽部は芝居をやるために結成したのではない。鳥越を、神社を中心として住み良い美しい村にしたい。そして若い者も、大人も、仕合せに、たのしい日々が送られるようにしたいと願う念願から、まず私どもの身を修めつつ楽しみつつ、また皆様方に私どもの心もちをわかっていただき、さらに協力していただき、この尊い農業を心から精出して日本のために尽くしたいのであります。今晩の私どもの芝居『水涸れ』も、無意味に河原で水喧嘩をする有様を舞台に表したのではなく、将来水涸れに対してはこうしたらよいのだろうということを、皆さんにわかっていただきたいのであります。面白いときには笑ってください。涙の出るような場面には心ゆくまで涙を流して泣いて下さい。そうだ、ほんとうだ、と感じたときには、そうだ、ほんとうだ、と声を挙げて叫んでください。(後略)」
午後七時半、照明がついて、まず田園の水掛のけんかの場面。本家分家の水掛け論や水どろぼうの様子などが次々と演じられ、お互いの自分勝手さが浮き彫りになります。第三幕では、賢治の発案した篝火が水番の人たちによって盛んに燃やされ、あたかも利己主義が遂に炎と化して真っ暗闇に延々と燃えるようで、周囲は興奮に包まれました。
 照明がぱっと消され第三幕が幕となり、バイオリンとハーモニカと笛の合奏による音楽が響く中、歌が歌われます

──私たちの人生とは、一生土に親しんで土に死んでいくものだ。その使命の何と尊いことか。水涸れに苦しみ、雨の降る中を身を粉にして働く私たちが、いま目覚め、いま立ち上がらなければ、村の幸せも、この世の中の幸せも訪れることはない。理想の村を願い、若い私たちの胸は炎は燃え上がる──

第四幕。村の主だった人々による対策協議会の様子が描かれます。盛んに議論が出て、次第に協調へと話が進んでいきます。結論は、お互いに水盗みをやり、水番をやり、喧嘩をする時間と労力で、水源近くに貯水池を築いて、春先の雪解け水を蓄えておき、水涸れの時期に流そうということになりました。要はお互いが利己主義で相殺するか、共同で助け合うかの精神問題なのだと。お互いに幸福を望むなら、互助協同の旗の下に、貯水池築造に邁進すべきだと──そして最後の幕が靜に下りました。
閉幕は十一時。その晩のうちに片づけを済ませ、翌日は、みんないつも通り朝早くから稲刈り準備をはじめました。ちなみに、この最初の劇の費用は、一円八十銭の電灯料金のみ。大自然を背景にして、自分たちの普段使っている野良着のままでやったからです。

 何から何まで手作りの公演でした。甚次郎はこの芝居で、第四幕で語られた「共同で助け合う精神」をみんなの心のしみこませたかったのだといっています。そしてその願いは実を結び、この芝居の上演から十年目に、本当に貯水池を建設することが出来たのです。私はこの事実を知ったとき、賢治のことば「思想はエネルギーである」とは真実のことなのだと実感しました。甚次郎は貯水池を作ることを目的にこの芝居を上演したわけではありません。賢治さんが言われた「教化ということと、熱烈さと、純情さと、美を没却してはならない」という言葉を信じ、みんなで助け合いながらみんなが幸せになることを願って、誠心誠意、素直な心で上演しただけです。そして誰にでもわかる芝居という形で本当に大切なことを熱意を持って伝えたから、その心が村の人たちの心を動かす原動力になり、何年かかかったけれど実を結ぶ結果になったのです。今まで単なる娯楽、また現在においては自己表現のためにあると考えられがちだった演劇が本当に人を、世の中を変えることが出来るということがこれで証明されたのです。それこそが、賢治さんが考えていた演劇というものの本当の意義だったのではないかと思います。

農民芸術とは宇宙感情の 地人 個性と通ずる具体的なる表現である
そは直観と情緒との内経験を素材としたる無意識或は有意の創造である
            …
 そは人々の精神を交通せしめ その感情を社会化し遂に一切を究竟地にまで導かんとする
                               (農民芸術の本質)


甚次郎の考えた農民劇の要項
 この公演の成功を期に、甚次郎は次々と農民劇を上演していきます。弾圧や迫害も受けたりしましたが、禁酒の意味を加味した劇「酒作り」や、満州への移民の必要性を訴えた「移民劇」、村の自給経済の確率と消費生活の合理化を図るために組合を結成する必要性を訴えた脚色劇「壁が崩れた」等、年に一作ぐらいのペースで上演を続け、十年間で三十回以上の上演を行いました。それぞれの芝居がまた、村の生活にいい意味で影響を与えていったことはいうまでもありません。
 そして後に、甚次郎は農民劇の要項をこのようにまとめました。

一,われわれの農民劇は農村娯楽の整頓と綜合、すなわち芸術化を目標とすることを上げねばならぬ。
二,農民の寂しさと退屈とを救う社交機関にしたい。
三,農村人の教化訓練に役立たせ、結局に於いて農村文化の向上に帰一せねばならぬものと信ずる。
しかしながら、その目的意識は決してとらわれ足る頑固、執着ではなく、いつも民衆芸術と協調する充分なる余地の存するものでなければならない。最初は一般の観衆は無頓着で、単に興味本位で出発するのが自然である。やがて彼らがいつとはなしに、十年かかっても良いから、その急所を自覚したとき、それが農民劇としての目的達成なのである。(「土に叫ぶ」より)

 この考え方は、賢治が「農民芸術概論」で述べていることのさらに実践的なことではないかと思います。特に三については、一つの芝居を上演するのに、それに関わるすべての人間がそれぞれの役割を責任を持って、協同の下に活動しなければ良いものはできないと断言し、また村にはたくさんの才能を持つ人たちがいるのだから、それをすくい上げ、のばしていくことが大切だとも言っています。賢治も甚次郎に語ったことばの中や、「農民芸術概論」でも、同じようなことを言っています。

職業芸術家は一度亡びねばならぬ
誰人もみな芸術家たる感受をなせ
個性の優れる方面に於て各々止むなき表現をなせ
然もめいめいそのときどきの芸術家である
創作自ら湧き起り止むなきときは行為は自づと集中される
そのとき恐らく人々はその生活を保証するだらう
創作止めば彼はふたたび土に起つ
ここには多くの解放された天才がある
個性の異る幾億の天才も併び立つべく斯て地面も天となる
                   (農民芸術の産者)

 甚次郎が賢治の「農民芸術概論」をどれだけ知っていたのかはわかりません。でも本当に、甚次郎が賢治のことばを生涯忘れず、村のために、ひいてはすべての人のために生き続けたのだということを実感します。そして甚次郎の実践してきたことを知るたびに、賢治が語り、書き記してきた「世界がぜんたい幸せになる」方法とは、こういうものなのか・・・と思わずにいられないのです。

   
初出/『松田甚次郎の仕事』北山裕子、「でくのぼう宮沢賢治の会5号」でくのぼう宮沢賢治の会、2003年12月。

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