『みにくいむすめ』

レイフ・マーティン 作/デイヴィッド・シャノン 絵/常磐新平 訳
(岩崎書店)


紹介/文・今井

 

 世界には1500ものシンデレラ物語が伝えられているそうです。しかし、このお話を単なる「シンデレラ物語」の一言に括るのにはとても抵抗があります。それでもあえて「シンデレラ物語」と呼ぶのならば、これは一段も二段も深化し洗練された「シンデレラ物語」でしょう。その中にはるかに奥深いものが隠されているようです。
 これは、ネイティヴ・アメリカンのアルゴンキン族に伝わる民話が元になっているお話です。
 湖の畔に小さな村があり、ここの部族はウィグワムというテント小屋に住んでいるのですが、村はずれに一つ、ひときわ大きなウィグワムがありました。そのウィグワムには、太陽・月・星・植物・動物たちの絵が描かれているのでした。
 そして、そのウィグワムには「見えない人」が住んでいると言われていました。その「見えない人」とは、たいそう立派で、お金持ちで、力持ち、おまけに凛々しい顔をしているとの噂でしたが、誰にもその人の姿は見えないのです。その姿が見えるのは、一緒に暮らしている「見えない人」の姉だけです。
 村中の女たちがこぞってその「見えない人」と結婚をしたがりましたが、姉に「弟と結婚できるのは、弟の姿が見える人だけだ」と断られてしまいます。
 この村には、一人の貧しい男が三人の娘と暮らしていました。上の二人の娘は、意地悪でわがままの高慢ちき、末の妹をいじめていました。末の娘は、姉たちの仕業で顔や腕に火傷を負い髪もボロボロでみすぼらしいなりをしていました。
 ある日、その上の娘二人もご多分にもれず「見えない人」と結婚しようと、うんと着飾って「見えない人」のウィグワムに出向きました。「見えない人」の姿を見たことがないのにもかかわらず。しかし、そこには「見えない人」の姉が待ちかまえていました。
 そこで、「弟の姿を見たというのなら答えなさい」と、姉から二つの質問が鋭く飛びます。

  “弟の弓は何でできているのか?”
  “弟の橇は何でできているのか?”

 さて、皆さんならばなんとお答えになりますか?
 正しく答えられなければ、この二人の娘のようにみじめに追い返されるしかありません。けれども、末の娘は違いました。
 あくる日、決心した末の娘は、父親に頼んで出来る限りの結婚の仕度を調えて「見えない人」のウィグワムに出向きます。末娘は「どこを見てもあの方の顔が見える」といいます。「見えない人」の姉に優しく出迎えられた末娘は、その質問にも見事に答え、めでたく「見えない人」と結婚します。
 末娘にはなぜ「見えない人」の姿が見えたのでしょうか。私はここで、宮沢賢治の言葉を思い浮かべてしまいます。

  縄と菩提樹皮にうちよそひ
  風とひかりにちかひせり(「種山ヶ原」)
 
  わたくしは森やのはらのこひびと(「一本木野」)

 娘はこのような生き方をしたのだと思います。
 もし、男女の間に赤い糸というものがあるならば、大自然と共に生きながらその中に真実の愛と美を見い出し正しく生きる者には、必ずその赤い糸の相手に巡り逢える、という意味に取れなくもありません。
 しかし、ここでの主人公は女性ではあるものの、この物語で語られていることには、男や女である以前に人間としてもっと根本的でより深い何かがどうしてもあるように思います。
「見えない人」とはいったい誰なのでしょう?
 それはシンデレラ物語のいわゆる「白馬の王子様」なのでしょうか? それとも……? ここには困ったときに助けてくれる魔法使いの魔法もありません。
 この物語には、宇宙を貫く一つの法則が描かれているように私には感じられるのです。
 娘は「見えない人」と結婚し、二度とはなればなれになることはなく、大へん幸せに暮らしたそうです。
 「見えない人」の姿を確かに見、「見えない人」と結ばれて、「見えない人」と二度とはなればなれになることなく永遠に幸せに生きる−私たちがそれを出来るようになるのはいつのことでしょうか。