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平成18年
11月の読書会

月例会11月の予定

 「春と修羅第二集」「七五 北上山地の春」。

 かぐはしい南の風は
 かげろふと青い雲?(うんおう)を載せて
 なだらのくさをすべって行けば
 かたくりの花もその葉の斑も燃える
             
(「北上山地の春」より)


 夜どおし歩いた心象スケッチ(一九二四、四、一九から二○の日付けのある五作品)の最後がこの「七五 北上山地の春」です。私たちも月例会で一作品ずつ読み進めて、夜から夜明け、そして朝の北上山地に辿り着きました。さあ、この作品の春の光と風の中に立ってみましょう! どうですか……。
 この作品で、特に心に刻印される鮮やかなイメージは〈風の透明な楔形文字〉。誰でもきっとドキドキします。そしてそれから、どんな世界が広がるのでしょう、この詩を読むひとりひとりの人の心の中に。(それにしても「はるだ、はるだ」とかたくりの葉に浮かぶ文字を読む「若い木霊」がどうもここにはいるらしい、そう思いませんか?)
 知識も体験もそして詩的感受性も貧困な私たちが、こんな素敵な作品をよむために、「いわてっこ」の平野さんが「かたくりの花」や「みずばしょう」などの写真を送ってくれています。(ホームページのブログ「ポラーノの広場」をご覧下さい)。またこの作品の担当者の成内さんは用意周到に11月例会でやるためのレジメを既に用意して「語句説明」だけを10月例会で配布してくれました。(レジメ全部を配ると、一対一でピュアに読むチャンスを奪うからです)。
 春の輝きをとらえた賢治のこういう作品に触れると、私はほんとうに思うのです。岩手県を〈イーハトーヴォ〉と宮沢賢治が言っているのは、やはりなまなかの事ではない。気の利いたデンツーの人なら「風の楔形文字」的なシャレたイメージの断片くらい提供してくれるかもしれないけど、それは生きたものではない。賢治は「イーハトーヴォ」と発語することに命を賭けたから、限りなく透明ないのちの風が、そこには吹きわたるのだと。そう思いませんか。

    文・熊谷えり子


『春と修羅』第二集



作品 「七五 北上山地の春」を読みます。(予定)



更新 H18 11/14
 


平成18年
9月の読書会

月例会9月の予定

 「春と修羅第二集」「七三有明」からやります。

 あけがたになり
 風のモナドがひしめき
             
(「七三有明」より)
    

 あけがたの、ひしめく風のモナドを見たものは、かつてあったろうか。
 見た者がもしあったのなら、それは夜と共に夜の眠り(死)を眠り、夜明けと共に生まれ出たものにちがいない。そうでなくて、もしもあけがたの風のモナドを見たとしたら、それは夜どおし大地のすべてを見つめつくしてくださったーーそうして夜明けと共に消えてゆく天子(月)だけだ。
 心象スケッチは、いのちに近づく、いのちがけのいとなみ。「いのち」とは森羅万象の生まれ出た根源。宇宙意志というべきか。宮沢賢治はそう言っていたかもしれないが、私はわからない。
 けれども宮沢賢治の心象スケッチに、私たちがどうしても惹かれてゆくのは、しんじついのちにふれたいからだ。こんなにいのちから遠く離れてしまい、こんなにひからびたようになってしまった私たちも、本当はいのちの歌をうたいたいのだ。皆と共にもう一度、どうしても歌いたいのだ。

    文・熊谷えり子


『春と修羅』第二集


作品 「七三 有明」を読みます。(予定)

 


更新 H18 9/2
 


平成18年
3月の読書会

月例会3月の予定

 「春と修羅」第二集
   「四五 海蝕台地」
   「四六 山火」
 東北地方の早春は、きっと樹木や大地の見えない内部で、私たちには想像もできないくらい真剣でいのちがけの、もの凄い生命エネルギーの発動と動きがあるのではないだろうか。梅も桃も桜も急に咲き出す春光の降り注ぐ前に、本当の再生のドラマが一本の木や草の中で繰り広げられているのだ。

  古い劫(カルパ)の記念碑である……
    「四五 海蝕台地」より 一九二四・四・六
  この恐ろしい巨きな夜の華の下
    「四六 山火」より   一九二四・四・六

 大正13年(一九二四年)夏の心象スケッチには童話「銀河鉄道の夜」との関連を、はっきり感じさせる作品がある。そのことを思うと、大正13年春から初夏にかけての詩(心象スケッチ)は、まだかたちにはなっていないけれども、見えない地下水脈のところで、大きなドラマが滔々と語られていたのではないだろうか。それは未だことばにかたち創られる以前の、ことばの原形質のようなもの。妹トシの死を越えた時、思いがけなく古い己れの意識の深層から汲み上げられた「いのち」のようなもの、暗い巨きな闇の中から、一点の光、銀河鉄道がかたちを得て走り出す、そのまだ見えないいのちそのもののようなもの。

    文・熊谷えり子


『春と修羅』第二集


作品 「四五 海蝕台地」
「四六 山火」を読みます。(予定)


更新 H18 3/6
 


平成18年
1月の読書会

月例会1月の予定(都合で2月4日開催)

『春と修羅』第二集
「二 空明と傷痍」
「三五 測候所」(予定)

 二○○六年を迎えました。地球は今、自然破壊と種の絶滅、異常気象の進行、そして戦争とテロ、人心の荒廃ーー鬼のような人の心と悲劇の増幅ーーこれらに耐えて耐えて地球は、もしかしたら瀕死です。
 けれども何故か、空はきれいになっている、光は増し青空の青が透明に近づいているのも紛れのない事実と思われます。今「地球が晴れて行く」のが真実であるとしたら、それは遠い遙か彼方からの約束。その約束を果たすために沢山の方々がいて、その中のにんげんの一人に宮沢賢治というデクノボーが居りました。私達は賢治氏を追いかけ師と仰ぎ、稚拙なデクノボーの真似をしています。今けん命に追いかけてカッコ悪く走っています。
 だからといって、宮沢賢治の心象スケッチは正直、非常(非情!)に難しいです。二○○六年を生きる「わたくしという現象」がどのように宮沢賢治の心象スケッチと出会うのか。「デクノボー」という密かな無音の共鳴のむこうに、宇宙音が聞こえる? かな・・・。もし聞こえるなら、それは「わかる」「わからない」など霧散霧消する純一なひびきにちがいないと思います。
 今年も、どうぞよろしくお願いいたします。

   二○○六年  元旦
熊谷えり子

 


『春と修羅』第二集


作品「二 空明と傷痍」
「三五 測候所」を読みます。(予定)


更新 H18 1/2
 

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