森荘已池氏は生前、宮沢賢治の幽体離脱について、桑原啓善氏以外には秘して語らなかった。しかし森氏の直木賞受賞作は実は、幽体離脱を扱った作品であった。
桑原啓善著『宮沢賢治の霊の世界』のプロローグは大変重要である。「臨終の日の朝、賢治は幽体離脱して森佐一の家を訪れた。この驚くべき事実から賢治文学の神秘と深淵のベールが開かれていく。」と帯には書かれている。著者桑原啓善氏が初めて森荘已池氏を訪ねた時森氏が初めて他人に明かしたという事実、賢治が臨終の日の早朝、幽体離脱して森氏を訪れたという思いもかけぬ話を打ち明けられ、それをきっかけとして桑原氏は生前の賢治を最もよく知る森氏から宮沢賢治は実は霊の世界が見えていたいわゆる超常能力者であったこと、そして賢治は地球を愛の星に変えようとした革命家であったことを聞き出し、これまで隠されていた宮沢賢治の真実が明かされてゆく。そこから桑原氏の『宮沢賢治の霊の世界』は大きく展開して、これまでの宮沢賢治論をすべてくつがえすばかりでなく賢治の目指した「デクノボー革命」にまで論は及んでいく。実に壮大なスケールでそれは展開するのだが、そのすべての始まりが、先の賢治の幽体離脱の話である。その事実については、森氏は宮沢家に迷惑が及ぶ事を最大に考慮して決して人に明かさなかったということだが、実は森氏が賢治が死の日に幽体離脱して訪れた事実をいかに重大な事として深く心に刻みつけていたかということ、そしてそれだからこそ森氏はその事実を決して他人には語らなかったが、森氏の使命感は実は創作というかたちで幽体離脱を書き記していたのである。
私はかつて森荘已池氏から聞き、深く印象に残っている言葉がある。それは森氏が賢治と関わった年月(賢治の生前死後含めて)と森氏が果たした役割をしみじみと振り返り「私は結局(賢治の)ジャーナリストの仕事をしたのです」と語られた事である。賢治を正しく世の中に伝えるために、自分の才能と人生の時間を潔く捧げた人の人生の重みをかけた言葉が「ジャーナリスト」であったと思う。森荘已池という偉大な人間の器とたぐいまれな才能の資質は、天才宮沢賢治を世に伝える真のジャーナリストとして「選ばれた人」であったと、やはり私は感じる。
幽体離脱を扱った創作(短編小説)とは、実は森荘已池氏が昭和十九年に直木賞を受賞した記念すべき作品「蛾と笹舟」である。森氏は昭和十五年に宮沢賢治との初めての出会いを描いた「店頭」を巻頭に掲げた創作集『店頭』のなかの「氷柱」で芥川賞の候補にはなっていたが選には惜しくももれた。しかし昭和十九年には「山畠」で直木賞の第一次予選を通過し、その後の選考で「山畠」より少し前に発表した「蛾と笹舟」を参考作品として加えることで二作品で直木賞の受賞が決定した。何となく賢治の縁というか深いところで働く何らかの力を感じさせる。
「蛾と笹舟」は主人公の祖父が大往生で死ぬ前に幽体離脱をするという話である。題名の「蛾」と「笹舟」はそれぞれ幽体離脱の証拠となるものである。その部分を引用してみる。
私はその日も、祖父の枕もとに坐ってゐた。祖父は、こんこんと眠ってゐるやうであったが、ふっと目をあけると、
――ああ、つかれた、つかれた。外に出るとつかれるね。
といった。私はおやと思った。
――どうしたんですか?
と、思はずのぞきこむと、
――いま、お前さんの家へ行って来たんだ。英子がね、裏の堰で洗濯をしてゐたよ。泰二と洋三がね、堰の傍で遊んでゐたよ。英子がね、笹舟をつくったんだ。それを流して子供たちに見せてゐたよ。
といった。私はぎょっとした。看護婦の藤井さんも、さっと顔色をかへた。
――はあさうですか。それを見ておいでになったんでお疲れになったのですね。
といったが、懐中日記を出すと、俳句を書く振りをして、
「祖父の死期迫る。親戚をそれとなく集めること、午後四時半ごろ、霊魂游離、我が家に訪ねたりと、英子にたしかめること」と、書いた。
――私、こはかったのよ。お父さん、やっぱり歩いてるわね。
と、妻がいふのである。
――え、こんどはどこへ行ったんだ?
私は坐りなほした。
――それがね、謹一のところなのよ。をかしいでせう。どこにゐるかもわからない謹一のところなんですもの。
と、いった。いま死ぬという病人の霊魂が、肉親にしらせるためには、アフリカにでもフランスにでも満州にでも行くといふ記録もあった。さう話すと妻は、
――だって謹一は、戦争に行ってるんでせう。どこにゐるかわからないのよ。
――そんなことは、われわれの官能が感ずる世界ではわからないので、霊界では、わりにかんたんなことかも知れんぞ。
――さうねえ。夜中にふと目をさました父さんがね、いま謹一のところに行って来た、といふのよ。私こはいから、父さんの顔を見ないでゐたわ、父さんは謹一が小さな船に乗ってゐたといふのよ。蛾になって、謹一のところに行ったらね、謹一はその小さなお船のお部屋で、何か書いてゐたといふのよ。
妻は、まだこはさうに、あたりをはばかって、小さな声でいひつづけた。
――へえ、蛾にねえ、どうしたもんだらう。蛾になって、西南太平洋まで飛んで行くのかねえ、それとも、ぽかっとそこに蛾になって出るのかねえ。謹一には、ただ物質ではない蛾が見えただけではないかねえ。
この話があって――十日ほどしてから父は死んだ。枯死する木のやうに死んだ。
「蛾と笹舟」のこの部分を読むと『宮沢賢治の霊の世界』の中で森氏が桑原氏に、臨終の朝、賢治愛用のゴム靴のゴポゴポする音を森氏が夫人と二人でたしかに聞いたというくだりの森氏のことばが思い出され、この作品の中のことばと重っていく。「へえ、蛾にねえ、どうしたもんだらう。蛾になって、西南太平洋まで飛んで行くのかねえ、それとも、ぽかっとそこに蛾になって出るのかねえ。」という主人公の言葉には森氏自身の声をそこに聞くおもいがする。「森氏は私に『あれは、やはりレイコンですかね。……しかし、魂が音をたてるものですかね』と、真顔で尋ねた。」と桑原氏は森氏のことばを記しているのである。
「蛾と笹舟」は、人間と人生に対する深い愛が作者の心の温もりのように深々と感じられる作品で、すぐれた短篇小説として評価されている。参考に当時の直木賞選評の一部を紹介する。
吉川英治 ・・・
森荘已池君の候補作品「山畠」参考作品「蛾と笹舟」は、共に腕の確かさを首肯させる作品である。と云ふよりは、作品から窺はれる作者の人柄に多く気をひかれる、と云った方がいいかも知れない。後味の良さが中々捨て難い。
中野実 ・・・
曠野へ旭日を仰ぎ出て、たまたま野菊を一本見つけた。こまやかな愛情にしっとりとぬれてゐて、土に深く根ざした養分が、ほのぼのと、花の香になって匂ってゐる。しかも、その野菊の咲いてゐた径は、旭日を仰ぎに出る大道である。
その意味で、私は「蛾と笹舟」を採る。
井伏鱒二 ・・・
二つとも穏健平明で、決して姑息なるところがない感じである。敢て大きく見せようとする加工の跡がなくて清潔であると思った。それで私はこの作品に一票を投じた。
宮沢賢治が今日のように私たちにのこされるには、本当に多くの人々の存在と働きがあったからである。自分の生涯を献げるように献身的に働いた多くの先人達のおかげで、今日私たちは賢治作品とその世界をこんなに豊かに享受できるのだ。まず第一にかけがえのない恩人といえばやはり去る六月十二日に逝去された実弟宮沢清六氏の存在であろう。命がけで作品を守り通した清六氏なくしては今日の状況は考えられない。(尽きぬ感謝の念と共に心よりご冥福をお祈り致します)。それから草野心平氏の存在もかけがえのないものだ。賢治没後のあんな早い時期に全集が出るよう、熱心に文壇、詩壇に紹介し働きかけた力はすごい。同じように森荘已池氏の存在もどうしてもかけがえのないものであった。草野氏のような外向きのバイタリティー、働きではなく、賢治を最もよく理解し、最も真実を伝えてくれたという意味でやはりかけがえのない存在であったと思う。人は事実を見ても真実を語れるとは限らない。宮沢賢治と出合い「生きて、この人と会えたことは、何という幸せかと思った。私が見たこの人のことを、書き残そうと私は心に決めた。」(『ふれあいの人々 宮沢賢治』)と書き記した森氏でなければ、語り遺し書き残されなかったであろう真実の重さ、その真実が孕む意味は21世紀になり今後更に限りなく深く大きいものになるにちがいない。森荘已池氏が証言し、桑原氏が解きあかしたように、宮沢賢治こそ霊性の新時代を開く革命家であったと、もうすぐ皆が気付き、口々に言うようになるだろうから。