民話
賢治と意外な接点をもっていた、遠野物語の語り手   佐々木喜善
  【プロフィール】

(ささき きぜん) 1886〜1933・9・29
 ・岩手県上閉伊郡土淵村(現遠野市)に生まれる。
 ・作家(筆名「鏡石」)、民族学者(「日本のグリム」と称される)
 ・「遠野物語」(柳田國男著)の話者
 ・大本教の信者(はじめはカトリック→日蓮宗→真宗→大本教)
 ・エスペランチスト 


佐々木喜善と宮沢賢治

二人が熱中した、宗教や霊界の話とは(1)

平野利幸  

はじめに

 『新・宮澤賢治語彙辞典』(東京書籍)の【佐々木喜善】(ささききぜん)の項の中に「・・彼は花巻でのエスペラント講習会の会場の相談がきっかけで賢治を幾度も訪問しており(賢治は会場を世話した)、宗教や霊界の話題に熱中し、・・」とあり、また賢治の父・政次郎のいとこで歌人でもある関徳弥(せきとくや)氏によると
 「喜善氏が来花すると必ず宮沢さんを訪ねた。そして喜善氏の信仰する大本教が宮沢さんに依つて時に痛烈に批判されても、喜善氏は宮沢さんにはかなはない、といつて頭をかいてゐるのであった。豪いですね、あの人は。豪いですね、全く豪いですね、と、鋭く言はれながらも喜善氏は嬉しがつてゐた。時には、おかげ話はいゝですよ、と言つて相好をくづしてゐた」(『岩手日報』昭和八年十月二十七日、「早池峰山と喜善氏」)というのである。

 お互いの晩年、しかもほんの数年間の付き合いで、賢治から自身の信仰を痛烈に批判されながらも「豪い」と言って喜んでいる喜善の姿というのは、実はその希有で不遇な人生を送ってきたそれまでの喜善からはとても想像できないのです。果たしてその喜善の人生観をも変えたと思われる、その賢治となされた会話とは一体どのようなものだったのかに、大胆にも迫ってみたいと思います。


1、
二人の親交

『遠野物語』(1910柳田国男著)の伝承者で、作家・民俗学者でもある佐々木喜善と賢治との親交は、花巻と遠野という隣接した土地柄や共に文筆の人であったにもかかわらず、意外にも晩年の五、六年だけであり、しかしその影響は特に喜善には大きかったようだ。
 例えば喜善の『奥州ザシキワラシの話』(1920大正九年)や、賢治の「ざしき童子のはなし」(1926大正十五年二月一日発行の「月曜」二月号に掲載)が出た頃には、賢治と喜善とは充分に互いにその存在を承知していたと思われる。
 そして喜善が雑誌「東北文化研究」第一巻五号(1929昭和四年一月二十日)の論考「ザシキワラシとオシラサマ」の中に「花巻の人宮澤賢治氏の物によると」として、一部を抄録し簡単な解説を付している。その際、「月曜」誌を手許に持たなかった喜善が賢治に原稿入用を請う書簡を送り、その返信の賢治の書簡(242・1928昭和三年八月八日付)がある。
 「お手紙辱けなく拝誦いたしました。旧稿ご入用の趣まことに光栄の至りです。あれでよろしければどうぞどうなりとお使ひください。前々森佐一氏等からご高名は伺って居りますのでこの機会を以てはじめて透明な尊敬を送りあげます。」
 これが最初の交流だったようです。また、喜善は大本教の信者で、エスペランチストでもあったことから、1930昭和五年四月花巻でのエスペラント講習会に講師として招かれた喜善は、賢治と民話や宗教、霊界の話をしたという。1932昭和七年にもエスペラント講習会を開催したが、その会場は(賢治の紹介でか?)関徳弥氏の家であった(会期は一週間)。講習会そのものもエスペラント文法よりは、喜善お手のものの民族学風な話を毎夜遅くまで語ることが多かったようで、主に神様の話、凄い妖怪の話などであった。(関徳弥『北国小記』〈早池峰山と喜善氏〉参照。その他昭和三年〜八年の間の賢治からの書簡『新校本全集』第十五巻242・249・414・448 及び「校異」訂正欄参照)
 ところでその間の昭和六年八月に、喜善が「世界中ただ一人の私の理解者」と言った長女若(ワカ)が二十一才で亡くなっている。同じように唯一の理解者である最愛の妹トシを亡くした賢治と、そのような話をし、喜善には大きな心の支えとなったことは充分伺い知ることができます。また、賢治の死が伝わった時、喜善は号泣したという。そして賢治の没後八日目にいわば後を追うように亡くなった。(1933昭和八年九月二十九日)
 このように、同郷(岩手県)で文筆家、宗教家、エスペランチスト、最愛の理解者の死という共通点からのいい話し相手というだけではなく、それ以上に喜善に「豪い人」と言わしめた賢治の「革命家」としての姿が、そこに見えてくるのです。
 この「〈革命家〉宮沢賢治」という視点は、桑原啓善氏がその著書『宮沢賢治の霊の世界』の中で指摘しているのですが、賢治は「高位の霊的世界と交感できる」天才であり、また「革命家」であると言っています。また「世界を仏の世界に変える、それも宗教(信仰)でではなく、もちろん政治革命ではなく、人間のデクノボーへの進化(皆がジョバンニ少年になること)を目論んで、それは幻想でではなく、現実になることをもくろんだ人間の変革(革命家)だったわけです。」と指摘しています。そして森荘已池氏もハッキリ「賢治は霊感者だった」、「本心は革命家だった」と明言したというのです。(詳細は是非ご覧頂きたいのですが、以後私はこの視点から検証を進めて行きたいと思います)
 やはりこれが喜善に「豪い人」と言わせた賢治の本当の姿だと思います。そうなれば喜善でなくとも「豪い」と言わざるを得ません。この時の喜善、色々な目にあってきた喜善だからこそわかった賢治の豪さではないでしょうか。
 では次に、喜善について多少時代背景も踏まえてふれておきます。


2、
佐々木喜善小伝(略年譜)

出生から上京まで

明治十九年(一八八六)
十月五日 西南閉伊郡栃内村四十九番地(現遠野市土淵町山口)に、父厚楽(あつらく)長助・母チエの三男として生まれる。十月二十日 山口村十六番地、外祖父佐々木萬蔵の養孫になる。
 しかし事実は長助の長男茂太郎とタケを父母として生まれた。父茂太郎は明治十八年十二月、十八才で急死、その後に喜善は出生したため、喜善の籍をどちらにするかで厚楽家と佐々木家で争い、結局、喜善を是が非でも家に迎えて跡取りにしたい外祖父萬蔵は、強引に厚楽家の要之助(喜善の大伯父にあたる)と、まだ若い喜善の母との再婚を承諾させ、その交換として喜善を養子にもらった。つまり喜善の母タケはなかば家の犠牲となって再婚した。
 物心ついた喜善は、実の母と知らされ会いに行くが、タケは意識的に避け続け、このため喜善は「おれを捨てて出て行った母だ。」と快く思っていなかった。これは喜善の終生の心の傷となったようだ。「喜善の特異な性格を形成する一つの要因はここにある」と菊池照雄氏は指摘している。
 両家とも部落の中では有識者で学問への理解もあったという程度で、すぐれた家系というほどではなく、財産も、戸数三十戸ぐらいの部落の指折りといった程度で、ずばぬけたものではないが、一代で財を築き上げた祖父萬蔵は村会議員になった時、無学の故にたびたび恥をかくことがあった。この体験から孫の教育に異常なまでに熱中するようになった。折りしも日清戦争の後、明治二十年代は立身出世の風潮が日本全国を風靡していた時代、萬蔵も喜善には政治家か医者になることを望んでいた。

明治二十五年(一八九二)八才
 四月 土淵小学校入学。
明治三十一年(一八九八)十二才
 四月 遠野尋常高等小学校高等科入学。
明治三十三年(一九〇〇)十四才
 九月 盛岡の予備校私立江南義塾に籍を置く。(盛岡中学を受験するが失敗したと思われる)
明治三十五年(一九〇一)十六才
 四月 私立岩手医学校入学。この頃カトリック教会に通った。牧師の説教に興味を持ち、また教会には良家の子女が姿を見せたからだともいう。
明治三十七年(一九〇四)十八才
 五月 万蔵に無断で休学し土淵村に戻る。お金を小説本に費やし、ろくに食事もとらなかったため、痩せ衰え病人のようであった。喜善は、俺は医者に向かぬ、暫く考えたいと万蔵に言った。
 この時分に遠野郷をよく歩き廻っては昔話をきいた。

在京時代

 喜善の東京での学生生活は明治三十八年(二十才)〜四十三年(二十五才)までである。この五年間は日記などによるとほとんど学校に出ないで満足な講義を聴いたこともない怠惰な学生であった。夜と昼を取り違えたような生活の中で文学修行と語学の修得にエネルギーを注ぐ。まず、彼はロシア文学に惹かれ、ニコライ神学校でロシア語を学ぶ。国語を修め、ドイツ語、フランス語、エスペラント語の個人教授を受けた。

明治三十八年(一九〇五)二十才
 九月 万蔵の反対を押し切って上京し、哲学館(後の東洋大学)に入学。妖怪学の井上円了の創設した学校だったが、この時井上円了はすでに教壇を去っていたこともあり、文学の方に関心を示すようになる。
 この頃同時に喜善は泉鏡花の作品特に「高野聖」の幻想の世界に心惹かれ、以前より鏡花に手紙を何度か出していたこともあって、鏡花の家を訪ねている。喜善はこの頃から文芸の習作をはじめ、筆名は鏡花の一字から鏡石とした(石は当時の風潮と山下久男氏はいう)。この明治三十八年は日露戦争があり、また凶作で身売りする娘が続出し、万蔵の田畑も被害を受けたが、喜善も東京の偉い人とお会いできるようになったかと満足して、暮らしを切り詰めても送金を絶やしてはならぬと家人に言った。
明治三十九年(一九〇六)二十一才
 九月 同じ下宿で水野葉舟と知りあう。水野を通して三木露風、前田夕暮、北原白秋などと交遊をもつことになる。喜善は生来病弱だったが、背丈は六尺近くもあり目立つ人だった。遠野弁のうえどもりなので人には聞き取れなかったが、純粋で素朴な人柄は愛されたようだ。水野は喜善の語る遠野の昔話に興味を持った。
明治四十年(一九〇七)二十二才
 二月 短編小説「長靴」を文芸誌「芸苑」に発表。上田敏らに高く(といっても「おもしろい」という程度)評価された。その後も多くの作品を書くが「長靴」一篇が好評を得たにすぎない。
 七月二十一日
  外祖父万蔵死去(六十八才)
 九月
  早稲田大学師範科の聴講生となる。
 十月三十日
  養父久米造死去(四十五才)
 十一月五日
  喜善、家督相続する。
明治四十一年(一九〇八)二十三才
 十一月四日 葉舟に伴われて柳田国男の家を訪ね、柳田に遠野の伝説を話す。柳田はおどおどした痩身の喜善の第一印象に必ずしも好感は持っていなかった。喜善も文学者柳田を訪ねたはずなのに対座するのは官僚臭の人で、とまどったというが、柳田に会ったことが足がかりとなり文壇に登場できると信じ、非常に興奮して眠られぬ夜を明かしたという。
 その後毎月二日に柳田宅を訪れ、喜善の遠野郷の話を柳田は一字一句を加減せず感じたままに筆記し、「遠野物語」の原稿として簡潔な文章に書き直していった。鏡花の文章を手本にしたという。
 喜善は柳田にこれから文学修行するなら語学の修得すべしといわれ、神田お茶の水のニコライ神学校でロシア語を学び、ドイツ語、フランス語、エスペラント語の個人教授を受け、秋田雨雀などのエスペラント語運動にも参加したが、最も得意としたのはロシア語だった。
明治四十二年(一九〇九)二十四才
 二月末 喜善、土淵村に一時帰る。
 三月末 水野葉舟、土淵村を訪れ喜善宅に滞在、小品「遠野へ」その他の作品がうまれる。
 六月 葉舟、喜善から聞いた話を「怪談」として雑誌「趣味」にのせる。
 八月下旬 柳田、遠野を訪れ、この時の印象が「遠野物語」の序文に描かれる。
明治四十三年(一九一〇)二十五才
 六月 「遠野物語」を柳田が自家出版する。
 この頃喜善は露風、夕暮そして葉舟の家、旅籠など転々とした。幻覚を見たりあらぬことを喋り、からだの不調をしきりに訴えた。肋膜、腎臓病のきざしもあり、小石川の病院に入院した。この時、岩手県胆沢郡金ヶ崎村出身の看護婦千田マツノと親の反対を押し切り同棲する。
 十月 盛岡市岩手病院に転院する。マツノも同行する。早稲田中退。 間もなく病院暮らしにあきて、仙台に移る。
明治四十四年(一九一一)二十六
 茨城県港町平磯で療養する。

在村時代(前半)

明治四十四年から昭和二年の十七年間の在村時代は、現地に住み村の政治に関係しながら民俗の採集調査にあたった時期であり、このうちの前半大正九年までは彼の文芸と民俗が同居する時代で、「詩歌」「地上巡礼」「アルス」「朱欒(ザボン)」「曠野」「シャルル」などに小説、劇、詩、短歌、随筆などを発表し、同時に「郷土研究」に「ザシキワラシ」「オシラサマとオクナイサマ」などを発表している。

明治四十四年(一九一一)二十六才
 三月 帰郷し、遠野町で療養を兼ねマツノと暮らす。
 十月 土淵村に帰り、マツノは長女タキサ(後に若と改名)を出産。喜善の実母タケの長女として入籍。
明治四十五年・大正元年(一九一二)二十七才
 二月 土淵村青年会長となり、さらに土淵村農会長に当選。しかしいずれも名誉職の閑職であり、帰村は健康回復までの一時的なもので、機会があれば村を出ようと考えていた。
大正三年(一九一四)二十九才
 一月二十日 内縁の妻マツノと正式に婚姻入籍。翌日、長女タキサを養女として入籍。
 二月十一日 長男麿吉(まろきち)生まれるも、二十六日死亡。
 四月 岩手軽便鉄道が仙人峠まで開通、遠野停車場も完成。
 祖母ノヨに、佐々木家の財産に限りあることを知らされた喜善は無収入の肩身の狭さを感じ、柳田に就職の世話を頼み、岩手県知事堤定次郎の口利きで岩手県庁内の図書館に勤めたが、単身赴任の旅籠生活で時間に縛られる勤めに耐え切れず早々に辞めて帰村する。遠野中学の教師の話もあったが、自ら教師は合わないと判断、辞退している。
大正四年(一九一五)三十才
 二月 土淵村農会長再選する。この年、郡農会議員、県農会議員になる。
 七月二十四日 次男廣吉(ひろきち)生まれる。
大正六年(一九一六)三十一
 四月 土淵村村会議員に当選。(名誉職に過ぎない)
 十二月二十八日 三男光広生まれる。
大正七年(一九一七)三十二才
 二月 長女タキサを若(わか)と改名する。
 九月 北海道のアイヌ部落の調査旅行をする。
 この年、喜善は日本脱出を考え始めた。行く先は蒙古であるが、無論旅費、滞在費などは無いので、柳田を通して沢柳政太郎が会長を務める啓明会に出費を乞うた。が、結局啓明会からの許可は出なかった。
大正八年(一九一九)三十四才
 十二月 中編小説「魔法」が大日本雄弁会の雑誌「雄弁」に登載。稿料も初めて多額を得た。
 この年日本は経済不安が深刻化し、八月には富山県で米騒動が起こり全国に蔓延した。大正九年になっても米、麦、大豆などの価格の暴騰が続き、社会不安で各所にサボタージュが起こり、「奥州のザシキワラシの話」の出版も遅れ、喜善は印税を柳田から前借りした。
大正九年(一九二〇)三十五才
 二月二十日 処女出版の単行本「奥州のザシキワラシの話」を「炉辺(ろばた)業書」(柳田国男編)の一冊として発刊される。これは喜善の名で出版されたとはいえ、大半に柳田の朱筆が入ったものであった。
 八月 柳田、松本信広らと三陸海岸の旅行をする。 同月、ロシア人ネフスキー(詩人、ロシア語教師)、喜善宅に滞在する。
 十二月 祖母ノヨ死去。

在村時代(後半)

 この時代は、喜善が文芸を切り捨て民俗調査に乗り出した、最も充実した仕事をした時代といえるが、一方、村政では失敗が相次ぎその責任を負わされ、結局喜善が描いたものとは違ったかたちで村を出ることになる。


大正十年(一九二一)三十六才
 柳田は折口信夫と喜善を中心として沖縄を含め日本各地の民間伝承採集計画を企て、折口は調査方針をまとめ出費を啓明会に求めたが、金は出ずに終わった。
 この頃水野葉舟は妻の死から心霊現象に興味を持ち野尻抱影らと日本心霊現象研究会を組織した。
 この年、金石文研究家の本山桂川との交際始まる。
大正十一年(一九二二)三十七
 土淵村村会議員二期目に当選。この頃村でもランプは不自由なので電灯をひく話が起こり始めた。
 柳田は喜善の土俗学への関心の高まりに期待を持ち、当時としては全く珍しい録音もできる蓄音機と写真機を送った(喜善は自分が写真に撮られることをこわいと言って嫌った)。さらに、金が入用ならばわずか位は融通できるとも言ってくれた。
大正十二年(一九二三)三十八才
 この年の冬から(翌年三月まで)辷石谷江(はねいしたにえ)に通い、昔話を採集する。この話は後に「老媼夜譚(ろうおうやたん)」として出版される。
大正十三年(一九二四)三十九才
 二月 柳田の紹介で朝日新聞の学芸欄に「蒐集の興味」という題で登載されるも、柳田の朱筆による。喜善の文章は売文にならぬ?
 四月 本山桂川遠野を訪れる。ちょうどその時喜善宅に泊まっていたアイヌ人武隈徳三郎(「アイヌ物語」の著者)と、伊能嘉矩(いのうかのり)(人類学者、「台湾文化誌」の著者)、らと、夜明け近くまで語り合った。
大正十四年(一九二五)四十才
 一月 土淵村六代目村長に当選する。
 当時の村の戸数五百戸、人口三千二百人。しかしこれはもともと村会議員も辞めるつもりでいたところに、村の無電灯地区の人々から、早稲田大学に籍を置いた喜善ならとの期待と引灯の公約を負わされての、わずか二票差の当選であった。そのため反喜善派の議員は、どもりながら説明する喜善の揚げ足を取って攻め立て、ついには喜善は村議会恐怖になってしまった。
 また、当時は関東大地震の後で米価が急騰したため、米を有望と判断し、農工銀行から融資をうけ耕地整理組合をつくったが、米価は暴落し組合には借金が残り、組合長である喜善に全責任が課せられた。
 耕作をしない喜善は農民の恐ろしさを感じながらも、なにか村人のために役立とうとしたのだが、結局無電灯問題も手のつけようがなかった。
 彼自身の生活も、慢性化した病気と、長女の脊髄カリエスの療養費とで危機に瀕していた。村長としての評判の悪さに加えて、組合長としての借金の責任者として進退きわまり、村長になった二年目頃から村を出る決意を固めるようである。
 九月 柳田は喜善の「紫波郡昔話」の内容と文章に苦言を申し入れてきた。小説風に書きたいのは喜善の望みであるが、柳田はその中途半端な表現を好まず、多忙な柳田にとって非常に迷惑な仕事であると言い切っている。
大正十五年・昭和元年(一九二六)四十一才
 二月十日 四男喜広生まれる。
 七月二十九日 柳田、金田一京助を伴って喜善宅に見舞う。初対面の金田一の喜善の印象は「素直な素朴な単純な人柄」だったようだ。
昭和二年(一九二七)四十二才
 九月 単行本「老媼夜譚」を発行する。辷石谷江より取材した昔話一〇三。
 喜善は村に養蚕を拡めようと養蚕技師を雇ったが、村議会では、勝手に雇ったのでその給料は喜善個人に支払えといってきた。いよいよ出費はかさむばかりで、喜善は村を立ち去って自活するためにと神職の資格をとる。東京の病院なら娘若にもいいだろうとの考えもあった。
 この頃喜善は大本教の信者になっていた。
昭和三年(一九二八)四十三才
 喜善は柳田に東京での神職の紹介を依頼したが、神職に就くには高い株を買わなければならず、この話は頓挫する。
 とにかく村を逃げ出すために田畑、山林、家屋敷を売ろうとして村の斡旋屋に一切を任せたが、養母イチが最後に移ることを拒否し、家だけは売らないことにしたため契約違反で告訴された。その間にも金に困り切り売りするので契約違反が重ねられ、裁判の費用はかさみ、結局わずかの金が残っただけであった。それでもまだ借財は残った。
昭和四年(一九二九)四十四才
 一月 村長の任期終わる。結局彼の実績は、公文書の候文を口語体に改め、陳情書の起草をまたたくまに書き上げたということぐらいだが、これも説得力はもつが形式にはかなうものではなかった。
 二月 家族と仙台に移る。

仙台での晩年
 昭和四年から九年までの六年間が仙台での晩年時代である。この間は東京の柳田一門とも郷里の親戚知人とも交際のない時代であり、土を離れ在村時代の資料の整理、あるいは生きるための原稿書きに追われた時期といえる。
 折からの不況で四十を過ぎた喜善の就職活動は絶望的であった。このため喜善は村にいた時の取材ノートを材料に売るための原稿を書くことになるが、原稿を書いたから金がとれるというものではなかった。しかし仙台での六年間の生活は、彼を何とか援助しようとした友人知己の奔走によって辛うじて支えられた。
 当時、河北新報の学芸部長であった三原良吉氏と副社長の一力五郎氏が強力に支持した。一力氏は、喜善が金に困って持ち込んだ原稿に、新聞に掲載するしないにかかわらず全部に原稿料を払っていたという。また仙台中央放送局は三原氏の口利きで喜善を起用して「東北土俗講座」を放送していた。
 一方、この間「遠野物語」の世評も高く、柳田は前の話に拾遺をつけ「広遠野物語」として復刊しようと喜善に新しい材料を送るようにと頼んだが、その予定原稿も生活のために発表してしまった。これが昭和六年に出された喜善の代表作「聴耳草紙」で、三百三話の昔話の集大成である。これは本山桂川氏の世話であった。
 また、生活の手段の一つとしてエスペラント語の講習会を諸所で開いており、花巻でも昭和五年と七年に開いていた。
 一家六人の生活は喜善の原稿料だけで支えられていたが、長女は十年もの闘病生活をしており、彼自身持病の腎臓が悪化し生活は苦しかった。六年間に四回家賃滞納で追い出され、来客にお茶を出すこともできないし、切手代にも困るという日々であった。
 昭和六年八月八日午後五時、長女若が亡くなった。物憂い顔で喜善の昔話に出てくる雪女のような美人で利口な娘であった。二十一年の生涯を殆んど病床で送ったが、喜善の原稿を清書してくれたり手紙の代筆もした。喜善は若にわびなければと思った。喜善はいつまでもぼんやりとしていた。そして若の忌日に夢の中で若が一人ぼっちで宙を行くのをみた。その時どこからともなく追分節がまるでご詠歌のようにゆるやかな節できこえてきた。若はその節に歩を合わせて運んで消えた。追分節は若の鎮魂歌であったろうと柳田は思った。この頃から喜善の腎臓は極度に悪化し、尿毒症も起こしていたと思われる。
 昭和八年九月二十九日午前十時三十分、床から起きて歯ブラシを手にしたまま、本の谷間のような座敷に倒れた喜善はそのまま息を引きとった。四十八才であった。風通しの悪い暗い借家の中であった。


3、喜善と賢治の出会い(宗教や霊界の話)


このように、あくまで東京で売文によって生計を立てる夢を捨てきれずに、財産を無くして故郷を離れた喜善一家の仙台での生活が、喜善の肩に重くのしかかったのである。このような状況の中で、たとえ金のためといえエスペラント語の講習会で、逃げ出してきたような郷里に近い花巻に行くことは、決して愉快なことではなかったはずである。
 しかし前述の関徳弥氏によると「・・必ず宮沢さんを訪ねた。・・痛烈に批判されても・・豪いですね、と、・・嬉しがってゐた。」又「講習会そのものも・・民俗学風な話を毎夜遅くまで語ることが多かった」というのである。
 やはり賢治との出会いによって、明らかに喜善に何がしかの変化があったと思われるのである。でなければ、経済的にも困窮し、自身の体も娘の体も病弱の状態にあり、しかも人間不信に陥っているようにも思われる喜善が「嬉しがって」いたり「相好をくづし」たりするわけがないのである。
 では、一体どのような会話がなされたのだろうか。「宗教や霊界の話」というが、まずはそれぞれのみた霊界について検証してみたい。

喜善がみた霊界と宗教

 『遠野物語』の世界はおそらく明治時代には現実の遠野ではない。しかしその世界にあるような不思議な話は、当時も普段から聞かれていたし、事実、喜善の祖父母や辷石谷江など話し手は周りに多くいた。菊池照雄氏によると「喜善はこの種類の話に興味をもったが、彼自身異常な出来事の体験者であった。幽霊やザシキワラシを見ることのできる人であった。」
 実際喜善は、オシラサマ、ザシキワラシの話をする時、背後の壁を指して「いる、立ってこっちを見ている」と口走ったり、水野(葉舟)が喜善の部屋を訪ねてみると、日中というのに雨戸を閉めきって暗く、すっぽり布団をかぶって寝ている喜善は「壁から人が顔をのぞかしているのが見えてこのところ眠れない。どうも幽霊らしい。こんな状態では勉強に身がはいらないし、卒業をのばし、田舎へ帰って静養したい。」とぼそぼそ話したらしい。
 また喜善が哲学館を選んだ理由として「幽霊を研究するため」と後年息子たちに説明している。ペンネームの鏡石は前述のように泉鏡花の一字からであるが、鏡花が異常な霊感のはたらく宗教的な感覚の持ち主であったことは有名である。喜善の短編小説「長靴」の主題は夢の中の不思議さであり、幻想的な要素が濃いこの頃の文学の主要なテーマは、あり得べからざる不思議な世界の追求にあり、彼の体験、故郷の伝説的なものを素材に、遠野の風土を描くことにあった。佐々木遠野、遠野草刈などのペンネームもこれに由来する。
 この種のエピソードは他にもたくさんあるが、また、子供の頃から体が弱かったので、家の中で祖父母相手にひっそりひっそり読書をしていたこともあって、空想の世界に浸る暗い感じのする少年であったという。菊池照雄氏は「母親を失った子供は、この運命を悪魔、化け物によるものと理解する。彼は生みの親を奪われたという心の傷に神秘なものの力、実在を信ずる芽を育てていた。それに彼の育った伝説の倉ともいうべき部落の雰囲気が幽霊の興味となったものだ。」「自分がそんなであったから他人のこれと似た話に心から共鳴できた。柳田が喜善に示した関心は、喜善が話の倉を持っていたことと、一昔前の日本人が持っていた信心深い心を持っていたことによる。喜善の民俗調査に示した質の高さはこの鋭敏なむかし人の感覚によるところが大きい」と分析している。
 山田野理夫氏もまた「喜善は病気と根気の無さのために学業は全て中途でおわっております。喜善が短編小説、一幕物が主なる作品であったこともその体質と性格に拠るものです。」と指摘している。
 続けて菊池照雄氏は「彼は組織や秩序に弱い人であり、学校も、行く学校行く学校を途中で辞める。後、村政にタッチするがこれも途中で投げ出す。家の財産も使い果たすといった全く生活力のない人であった。人生に対して欲もない子供のような純真さがお化けを見て、この珍しい話が柳田をはじめ多くの人々から珍重されるということになる。・・・彼の話すお化けの話が一種異様な雰囲気をかもしだすのは、彼の人柄からくるものだ。」と指摘しています。
 しかし柳田は、喜善の文章から文学臭を取り去ろうとする一方、文字の正確であることを要求したが、喜善は文章を推敲しない。わずらわしいこともあるが「溢れるように筆先から湧いてくる」のだという。
 さて、このような喜善にとって宗教とは一体どのようなものだったのだろうか。喜善は盛岡の江南義塾時代からキリスト教会に出入りした。これは東京に行ってからも続いた。だが、大正の始めからは日蓮宗に心を寄せた。病に臥せるようになってからだという。それから真宗、天理教会へと転じ、大正末の頃には一切の宗教をもたなかったが、昭和二年頃から大本教の信者になった。遠野の民間信仰と共通するものがあり、またエスペラント語による伝導を行っていたので心惹かれたものと思われる。
 結局「喜善は教理に頼れるものなら何宗でもいいのだ。だから、その宗教を信じていた頃には最も熱心な信者であったはずだ。」と山田野理夫氏も指摘しているが、喜善は生涯大本教を棄てなかった。賢治に痛烈に批判されても、賢治にはかなわないと頭をかきながらも「私は大本の神様を深く信じています」と言っていた。ということは逆に、喜善は最後にやっと大本教に辿りついたともいえるのかもしれない。

賢治がみた霊界と宗教

ある日、賢治は生徒たちに「実は昨夜死んだトシ子が俺を訪ねてきたんだ。しばらく蚊帳の中で話をし、「迷いごとがあったらいつでも訪ねて来い」といって、仏壇の前に連れて行き、法華経を唱えてやった。そして玄関を開け、支えるようにして帰してやったんだが、すぐそばに寝ていた父にも母にも、俺の姿しか見えなかったらしい。」「人間というものは人によるかも知れないが、死んでからまた別の姿になってどこかに生をうけるものらしい」と話したことがあったという。
 また羅須地人協会時代に、賢治を訪ねた白藤慈秀氏によると、その時「おりおり吹いてくる風の音を聞くと、山犬が忍びくるかと怪しみ、静けさが続くと幽霊が出てくるのではないかと思った」と言ったそうである。
 その他にも、田んぼのあぜ道の一隅に置かれていた大きな石の下から餓鬼の声を聞いたり、学校の裏手にある五本の古い杉の下で大入道を見たり、怪談話をしては肝だめしを生徒たちとやったりした。
 賢治は幽霊や大入道だけでなく、神さまや仏さまの姿や声もまざまざと見たりはっきりと聴いたようで、多くの友人や知人たちに「お観音さまが美しい声で呼びかけて、ありがたいことを教えてくださった」とか「小岩井農場に行った時に、紫、青、赤、黄などいろいろな色が見え出し、美しい天地だと思えばそう見えるし、テームズ川だと思えばそうも見えた」などと話している。
 また、妹クニの縁談の取り決めのために下閉伊(しもへい)の刈屋(かりや)という所に行った帰り、宮古街道を盛岡に向かって歩いていたが、途中で後ろからきたトラックに乗せてもらった。間もなく何か危険な予感に襲われた。というのは、体の小さな青鬼だの赤鬼だの白鬼だのが、目先にチラチラ浮かんできたからである。そこで運転手にトラックを止めてくれるように頼んだが、運転手は大丈夫だといって止めてくれない。鬼どもは大きくなったり小さくなったりしながら、ますます踊り狂っている。その時ひょいと谷底を見ると、三メートルばかりもある大きな掌がさんさんと白光を放って、トラックを支えているようである。「お観音さまのお手だな」と思った途端それがスッと消え、思わず大きな声で「危ない!」とどなった。運転手と間髪を入れずにトラックから飛び降りると、トラックだけ谷底へ落ちて行ったという。
 また賢治は、早池峰山の河原(から)の坊というところで、山の方から手に錫杖(しゃくじょう)を突き鳴らした眉毛の長く白い、見るからにすがすがしい高僧が下りて来るのを見たが、そのお坊さんに会ったのは何でも七百年ばかり前のようでしたと、言っていたそうだ。
 他にも、森荘已池氏が花巻農学校を訪ねた時には、校長室の窓から見えるぼんやりした森を指しながら、「あの森にいる神さまなんか、あんまりよい神さまではなく、村人たちに意地悪をしたりして、相当下等なんですよ」と話したりした。
 その森氏は「私は、ほとんど会うごとに、〈快刀乱神〉ばなしを聞かされていた」と、その著『宮沢賢治の肖像』の中に書いており、また、臨終の日の早朝、賢治(の霊魂)が森氏宅を訪れたことを、森夫妻は信じて疑わない
 また、賢治十六才の、父宛の手紙にこう言っている。「本日霊眼氏の指導の下に静座仕り候ところ、四十分にして全身の筋肉の自動的活動を来し」(明治四十五年十一月四日、宮沢政次郎あて葉書)と。また『雨ニモマケズ手帳』(八一・八二頁)に、「調息秘術」と題し「咳、喘左の法にて直ちに之を治す」として、法華経の一説を記し、続けて「次に左の文にて悪しき幻想妄想尽く去る」として、同じく法華経の一説を記している。

 つまり賢治が〈咳・喘〉や〈悪しき幻想妄想〉に悩みながらもその退散法をわきまえていたということであり、これは同時に霊媒体質であったことをはっきり示している。
 しかし、宮沢家ではタブーとされていた「鬼神の話」つまり俗にいう霊能力者としての賢治(注、桑原氏は「高位の霊的世界と交感できる天才」と言っている)に注目した桑原啓善氏は『宮沢賢治の霊の世界』の中で「一般に、賢治の文学や仕事の根底に、法華経、なかんずく国柱会の影響があると言われる。私も、それを否定するものではない。しかし、本当は逆なのである。賢治の視力が見た異次元世界の秩序に、法華経、なかんずく国柱会の教えが最も近かった。それ故に熱心な信奉者となったのである。でなくて、どうして賢治は『農民芸術概論綱要』の中で、〈宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷く暗い〉と、宗教と科学を否定するような言葉を書いたのであろう。賢治の新鮮な目からは、すべての既存の宗教や科学は欠けたものに見えた。ただ法華経にのみ、自己の見たものと通じるものを感じたのである。」と指摘している。


喜善と賢治の違い(〈革命家〉賢治)


 これまでみてきたように喜善も賢治も非常に霊感の強い、いわゆる霊媒体質であり、それ故に見えた霊の世界・異次元の世界が二人の人生、宗教観とも密接に関わっていると考えられる。
 喜善は幽霊や妖怪を見、それを恐れ、肉体・経済的、精神的にも救われる(頼れる)ものならと、あくまで現世的幸福を求めたのに対して、賢治は「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という有名な言葉に代表されるように、自分ひとりを祈るのではなく、みんなが他者のために祈る時、つながりにおいて必ず皆が幸福になるという、この本当の幸福の原理を知っていた(みてとった)。そして、最愛の妹トシの死によって迷った後、北海道・樺太旅行で「みんなむかしからのきやうだいなのだから けつしてひとりをいのつてはいけない」と確信をもった。だから自分の仕事を通じての日常の菩薩行の実践を大切にした国柱会を通じての法華経の信仰があったのだ。
 やはりここにはっきりと喜善と賢治の違いがみえてくる。同じ霊界でも見たところが違うのである。賢治は「高位の霊的世界と交感できる」デクノボーであり、求めるところが違うのである。喜善はこれをはっきりと認め、それに感動したから賢治を「豪い」といったにちがいない。
 では、その賢治の「豪さ」とは一体何なのか、それは「世界がぜんたい幸福になる」ために「自己犠牲の献身の愛」によって〈歴史や宗教の位置を全く変換〉しようとした〈革命家〉としての賢治の姿なのです。――この〈革命家、宮沢賢治〉についての検証は、『宮沢賢治の霊の世界』(桑原啓善著)、または当「でくのぼう宮沢賢治の会」創刊号をご参照ください。

ところでこの時代、「千里眼事件」を契機に「心霊学」ブームが起きた。科学者はもちろん、芥川龍之介や川端康成、水野葉舟などの文学者もこれに関心をよせた。そして英文学者であった浅野和三郎は大本教のイデオローグとして活躍した。(のちに脱会)
 そこで次回は、心霊学、葉舟、大本教等をキーワードとして、賢治がどのように喜善の信仰する大本教を批判したのかに迫ってみたいと思う。


○参考文献

「新・宮澤賢治語彙辞典」原子朗編(東京書籍)
「新校本・宮沢賢治全集」(筑摩書房)
「宮沢賢治の霊の世界」桑原啓善著(でくのぼう出版)
「宮沢賢治―素顔のわが友―」佐藤隆房著(桜地人館)
「素顔の宮澤賢治」板谷栄城著(平凡社)
「宮沢賢治エピソード313」宮沢賢治を愛する会編(扶桑社)
「宮沢賢治 その文学と宗教」山田野理夫著(潮文社)
「賢治随聞」関登久也著(角川選書)
「佐々木喜善全集」(遠野市立博物館)
「佐々木喜善―遠野伝承の人―」菊池照雄著(遠野市立博物館)
「遠野の昔話」佐々木喜善著、山田野理夫編(宝文館出版)
「遠野物語の人 わが佐々木喜善伝」山田野理夫著(椿書院)
「柳田国男の光と影―佐々木喜善物語―」山田野理夫著(農産漁村文化協会)
「雪高き閉伊の遠野の物語せよ」山下久男著、石井正己編(遠野市立博物館)
「遠野物語の誕生」石井正己著(若草書房)
「遠野物語の周辺」水野葉舟著、横山茂雄編(国書刊行会)
「〈こっくりさん〉と〈千里眼〉」一柳廣孝著(講談社選書メチエ)
「大本教事件」出口栄二著(三一書房)
「王仁三郎の巨大予言」佐治芳彦著(徳間書店)



     

初出/『佐々木喜善』平野利幸、「でくのぼう宮沢賢治の会3号」でくのぼう宮沢賢治の会、2002年12月。


肖像権に関して・・・佐々木喜善の写真3点は当会HPにおいてのみ、遠野市立博物館による掲載許可を頂いております。写真の転用、コピーは禁止いたします。

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