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科学
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命を賭けた実験、本当の幸いの為の科学を求めた 高木仁三郎
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【プロフィール】 |
高木 仁三郎
1938年群馬県に生まれる
1961年東京大学理学部卒業。日本原子力事業、東京大学原子核研究所、東京都立大学などを経て、1975年に原子力資料情報室の設立に参加し、86年から98年まで代表を務める。1997年ライト・ライブリフッド賞受賞。イーハトーブ賞受賞。98年、市民科学者を養成する高木学校主宰。2000年10月8日死去。
主な著書
『プルトニウムの恐怖』(岩波新書)
『いま自然をどうみるか』(白水社)
『宮澤賢治をめぐる冒険』(社会思想社)
『市民の科学をめざして』(朝日選書)
『市民科学者として生きる』(岩波新書)
他多数。 |
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高木仁三郎さんが十月八日直腸がんで死去された。六十二歳だった。宮沢賢治の羅須地人協会やプラトンのアカデメイアのように、「みんなの本当の
幸 」のために現実の社会を変革する新しい科学者を養成する「高木学校」を九八年夏設立し基盤をつくられたのが最後の仕事のようだった。
高木さんは文字通り科学者の「良心」として存在し続けたように思う。核の時代という初めて人類が直面したまさに選択の時代に、高木さんは脱原発運動を市民科学者として担うことで、結局のところ戦争と金もうけの奴隷となった科学技術文明とまっこうから闘ったのだ。どれほどそれが困難なたたかいであったか。しかし高木さんは、一歩早くそのたたかいに一身を投じた宮沢賢治のように、一歩も後退することなく、たたかい抜いた。そして今私たちの時代は本当に大きく変わろうとしている。高木さんは宮沢賢治のように「(ワレラハ)黒キツチニ俯シ、マコトノクサノタネマケリ」(宮沢賢治「精神歌」より)と、まことの種を播いてくれた。だから二十一世紀という新しい時代が、間違いなく「ヒカリノミチ」に進むよう、高木さんの志を私たちは必ず生命の循環の中で引きついでいこう。
昨年七月高木学校一周年記念の特別講演会でお目にしたのがさいごだった。友人とふたりで、会場の一番前の真中に座って(ずうずうしく)講演を聴かせて頂いた。この時何よりも一番感動したのは、高木さんのつき抜けた明るい笑顔だった。この頃は既にがんで入退院をくり返し明日をも知れぬ状況であったのに、その澄み切った明るい精神そのものを映したような高木さんの笑顔を拝し、私はひどく感動してしまった。六年位前、インタビューでお会いした時は、とてつもなく多忙をきわめ、精神的にも張りつめた大変そうなご様子だった。(この時の高木さんの写真をみると決してそうではなく、笑顔ばかりのようだが、これは撮影した青木由有子さんの、多分瞬時に高木さんの本質をとらえたウデが凄かったのだと思う。実際のお会いした印象は全く違って苦しそうだった)。だから余計感動が深かった。
グスコーブドリのように自分をまるごと賭けた実験に生き抜いた高木さんを、かなしいけれど、私たちは「ありがとうございました」と申し上げて、静かにさわやかにお送りしなければいけない。(熊谷えり子)
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私の中の宮沢賢治
インタビュー 高木仁三郎
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一市民の立場から脱原発運動にとり組み、現在日本における運動の大きな推進的役割を務める高木仁三郎氏に〈内なる賢治〉について、お話を伺いました。
「でくのぼうライフ」第6号(1994年)より転載
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宮沢賢治との出合い
――高木さんのご著書は、原発、プルトニウム、または巨大科学批判など色々読ませて頂いていましたが、ある時偶然、高木さんと宮沢賢治の童話を一人で語り演ずる林洋子さんとの対談を読んで、高木さんの中に大変重く宮沢賢治の存在があることを知り、「ああ、そうか」というか、びっくりしたわけです。高木さんと賢治との出合いについて、まずおききしたいのですが。
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高木 三十代半ばまでは、賢治の作品を幾つか読んではいましたが、特別どうということはなかったんです。ところが三十代半ばになって、科学の世界にいまして自分のやっていることに疑問をもつようになったんです。
――その頃は、どういうことをなさっていたのですか。
高木 僕は核化学という部門なのですが、科学というものがどんどん巨大化していって、人間がつくり出したものなのに人間に支配力をもつという、そういう情況について疑問をもつようになったのですね。僕の分野は核化学とか宇宙科学ということで、とりわけ巨大性を必要としていて、その巨大なシステムに人間が組み込まれてしまって、科学者というのは人間としてというよりも、システムの歯車として動かなければならない。そういう非人間化した科学のいとなみの中に自分はまさにいたわけです。
その頃は大学の教師をやっていましたが、その前は会社にいて発電所を作る側にいたりして、そこで色々悩むこともあって研究機関に移ったり大学に移ったりしていたわけです。しかし大学にいっても基本的には同じような問題を抱えているわけです。そんな非人間的なものではなくて、本当に人間の顔をした科学というのをどうやったらやれるのかということを、自分でもずっと考えていて科学論みたいなものを書いたりしていたのです。
その頃、ふとしたきっかけで賢治の書いたものにふれたんです。それは賢治が羅須地人協会(注1)を始めて、その関係の資料に「集会案内」というのがあるのですが、それにこうあったんです。「われわれはどんな方法でわれわれに必要な科学をわれわれのものにできるか 一時間」。
この言葉を読んだ時には、こう身震いをしたというか愕然としてしまったですね。言葉つきまでそっくりに、賢治は既に四十年も前に僕と同じようなことを考えていたと。すごく驚きましたね。僕がやってきたのは巨大科学批判なんですけれども、そういうものは六十年代の公害問題なんかがでてきて、そういう中から出てきたと思っていましたから、それよりずっと前に賢治が既にそう考えていたことに驚きまして、それでこれは何だ、というわけで賢治をワーッと読むようになったんです。
――集会案内のその一行に、大変な出合いがあったわけですね。
自分の生き方とすり合わせて
高木 色々賢治を読んでみると、たしかに彼は化学に詳しいし地人協会で農業化学を教えようとしていたけれど、でも自分が観念的に考えていた宮沢賢治の世界とは違うかなという気もしました。一方に宗教の世界があり、一方に羅須地人協会とか農民のことがあり、そして文学の世界があってという具合で。しかし、その後よく調べてみると、彼に色々啓発されることも含めて、やっぱり自分が向かっているものと、ものすごく近いのです。それからは宮沢賢治というのは作品を読むというよりは、自分の生き方をすり合わせて読んでいったというかんじですよ。
――ふつうだったら文学作品として愛読していくのでしょうが、違った読み方をされていったわけですね。
高木 そうですね。ほとんど文学作品というかんじでは読んでいませんね。今でも「グスコーブドリの伝記」が一番好きな作品なのですが、あれは賢治の科学論だと思うんです。それから「雨ニモマケズ」なんていうのも、昔は何でこんなものと思っていたのですけど、自分の中でいろんなことがあってからは、本当に今では涙なしには読めないんですね。だから僕の場合は、文学作品としていいとか悪いとかということはほとんど興味ないんです。
それに賢治は、よい文学作品を書こうと思っていたのではないと思うんです。彼の作品というのは、まさに彼の生き方そのものであり、その生き方がまた作品であるような、そういう生き方と作品との間の非常に密接な関係があったと思います。その関係は必ずしもいつも成功ではないのですが。
――少し話は戻ってしまいますが、高木さんが、元々ご自分の仕事として科学の道を選ばれたのはどうしてですか。
高木 やっぱり科学の理論とか科学研究が世の中のためになると思ったからなんです。でも実際やっていくと、大学の象牙の塔にこもって何か理論を展開しているというような、どうやっても自分は傷つかないということになってしまう。そういうやり方では、本当に市民の立場に立っていることにならないのです。ある機構とか体制というものを維持するのに都合のいいデータをだすような仕事しかできないんですね。やっぱりひとりの人間という立場にまず立った上で、民衆の中に身を置いて、その目の高さからものを見るというようなサイエンスをやらないとダメだという気がしたんです。
――それで、最初の賢治の言葉に出合った時に衝撃を受けられたというわけですね。
羅須地人協会と同じ手作りの科学を
高木 巨大科学の中ですごい装置を使って放射能の実験をやったり、宇宙科学というのでロケットを月まで飛ばしてサンプルをとってきてそれを分析するというような仕事から離れて、市民の目の高さというか羅須地人協会というようなものを科学の分野でつくって、そこでシコシコと手作りの科学を始めたいと思いました。
――ああ、羅須地人協会を作ろうとしたんですね。
高木 まあ、はじめから意識してそうしたわけではないですが……
――でも、結局目指していたのが同じものであったということですね。
高木 ええ、この分野で私にとっては、ということですよ。
――そんなに大きく賢治が高木さんの中にあったとは知りませんでした。
高木 あったというか、そういうふうにして賢治と出合ったんですね。
――科学者として悩んでおられた時に賢治は高木さんの行こうとする方向を教えてくれたというか ……
高木 そういうことになりますね。
自分をまるごと賭けた実験
高木 一般的によく言われることは、羅須地人協会は失敗だったということです。たしかに色々失敗もあったし、いろんな批判があるわけです。
――金持ちの息子の道楽だとか言われますね。
高木 そういう面もあるかもしれませんが、けれども僕は賢治研究家でも何でもありませんが、僕に言わせるとですよ、そんなもんじゃないんですよ。科学というものをやっている人間にとっては、物事を自分で実験してみるしかないんですよ。「実践」という言葉がありますが、実践というよりも実験なんですよ。今の科学は、自分の身を安全なところに置いて装置にやらせる、実験室の中でやる実験なんですけれども、この賢治の実験というものは、自分というものを賭けてやる実験なんですね。失敗した時には自分がつぶれるんですよ、絶対に。試行錯誤ですから失敗を踏台にして成功につながっていくというものなんですよ。失敗は悪いことじゃない。後にどういうものを生むかということで判断されればいいんですよ。だから羅須地人協会は、それを受け継いでやる人間がいれば、その実験は生きてくるわけですね。だから羅須地人協会をふつうの失敗とか成功とかいうことで、評論家的に言うことは間違っている。賢治のそういう命がけの気持ちを書いたのが、あの「グスコーブドリの伝記」だと思うのです。
「グスコーブドリの伝記」に描かれたもの
高木 「グスコーブドリの伝記」が僕の好きなのは、結局ブドリという人が、自分の身を賭けて火山の爆発を起こして冷害をふせぐという、自分の命をかけるというところですね。よく自己犠牲の精神と言われたりしますが、そういうことよりは、僕はやっぱり自分を丸ごとかける、自分を安全な所におかない科学というものを賢治は志向していたのではないかと思うのです。そういう科学というものは他にはまずないですね。
――賢治の場合、本当に世の為人の為というか、それは身近な農民だったのですが、そのために自分をまるごとかけていますよね。
高木 ブドリはセンスがいいとクーボー大博士にほめられますが、知識の点ではクーボー大博士やペンネン技師なんかの方がずっとあるわけで、そういう人も大事なのですが、けれども知識のない人でもやれる科学があるのだという観点からブドリはみられるわけです。知識とか何とかではなくて、彼は自分の人生をそこに賭けるということで出来る科学があって、それもやっぱり一つの実験であって、そういうことを積み重ねることによって、間違いなくひとつの科学がみえてくると思うのです。
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生命の循環の中に
高木 「グスコーブドリの伝記」の最後のところで、ブドリは火山を爆発させて死んでしまうのですが、それによって世の中はこの話のはじまりと同じになるはずの「たくさんのブドリのお父さんやお母さんは、たくさんのブドリやネリといっしょに、その冬を暖いたべものと、明るい薪で楽しく暮らすことができたのでした。」とあります。この終わり方というのは、一人のブドリは死んだけれども、次にたくさんのブドリが出てきてつながっていくということをいっています。これはやっぱり一人の人間の実験がやはり次の世代にひきつがれるというふうに読めるわけで、これをエコロジーの概念で言うと「循環」ということです。仏教の言葉で言うと「輪廻」ですが。
「グスコーブドリの伝記」の異稿に「グスコンブドリの伝記」というのがあって、そこにはね、こういう表現があるんですよ。ブドリが火山を爆発させる役をやらせてくれと申し出るところなんですが、「私にそれをやらせて下さい。私はきっとやります。そして私はその大循環の風になるのです。あの青ぞらのごみになるのです。」というふうに言っているんです。それはつまり、一つの循環という中に自分の身を投じて、自分は青空のゴミになってしまうかもしれないけれども、自分のやったことが次の世代に循環して生きていく、自分は大循環の風になるといっているわけですね。ですから又羅須地人協会に戻りますけれども、あの羅須地人協会というのはそこに身を投じてそういう実験をしたのだから、それが失敗か成功かという問題ではなくて、それがどうその循環に受け継がれていくかということなんですね。
――賢治のみんなの幸福のために生命を賭ける思いというのが種となって、それが必ず受けつがれ実っていくということでしょうか。
高木 その次の人も又同じようなことをやっていくというふうに、物事が大きく、生命の流れが流れていくというようなかんじですね。
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私にそれをやらせて下さい。私はきっと
やります。そして私はその大循環の風に
なるのです。あの青ぞらのごみになるの
です。 |
――循環というイメージといいますか、生き方をつなげていくというのは、高木さんの中ではとても大きな意味があるようですね。
高木 そうですね、特に原子力の問題をやっていますと、廃棄物の問題などがありまして、ああいう廃棄物が一番循環しないものでして、生命にとって一番妨げになるものなんです。ああいうものをどうにかしたいと思うのですが、この廃棄物問題、原子力問題なんかやってますと、生きるということが自分の同時代の中で生きればいいということではなくて、ずっと先の世代との関連の中で、ずっと先の世代と共生するということを考えなければいけないことで、そうしたら当然循環ということ、どうつなげていくかということを考えなければいけないわけです。
――そうですね。時間も空間も越えた共生ということですね。賢治には「いのちは一つ」というおもいが根本的にありましたから。
「雨ニモマケズ」の中に原点がある
高木 「雨ニモマケズ」というのは子供の頃、皆読まされますよね。何でこんなものとかつまらないとか思ったものですが。
――そうですね、学校なんかで。暗い感じがして子供の頃はイヤでした。
高木 中村稔さんが「雨ニモマケズ論」(注2)を書いていて有名なんですが、中村さんもやっぱり羅須地人協会失敗論なんですね。僕のようには見ていない。
――そうですね。失敗したそのかたちしか見ていないですね。
高木 自分なりの科学をやってきてこの「雨ニモマケズ」を読みますと、中村稔さんも言っていますけれども「ヒデリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ」この二行でガクッとくるんですよ。ガクッというか……ジーンと僕がくるのは、やっぱり目の高さというか、ひでりの時は涙を流すし夏が寒かったらオロオロしてしまうという、そういうことに原点の感情がないと人間はいけない。それを何かひでりの時にはこう変えてしまえばいいとか何かうまいことしてやろうというような、まあ科学というのはそういう発想になるんですが、そうではなくてまず一緒になって目の高さで、どうしていいかわからなくてオロオロしてしまうというようなところからしか、物事始めてはいけないのではないかという気がするんです。
――いのちの共感というか、じかに相手の痛みを知るというか、そういうものですね。
高木 だから我々が何に根拠をおいて科学をやるのかということなんです。たとえば原子力の問題を少し専門的にやろうとすれば、そういう大きな機関にいってコンピュータとか色々な実験装置を使ってやれば、その方がデータが出てくるに決まっているんですね。ただね、それじゃやっぱりヒデリの悲しさとか寒さの夏のオロオロした感じは無くなってしまうわけなんですね。それはもう僕は実験室にいたから、よくわかります。そういう世界は完全に無機的な世界ですからね。
――科学者だけでなくて私たちも、そういう感情を失ってきていますね。
高木 それはそうなんですが、でもそれはまたちょっと違うことで、ふつうの人の感覚で、放射能ふってくれば本当に恐いと思う、という感覚で、そこを原点としてチェルノブイリの時はオロオロしましたよね。そこを原点とすることで、また違ったものが出せるかどうかということで、僕らは賭けているわけです。今大したことできてないじゃないかと言われればそれまでだし、後で僕が死んだ時にあれは失敗だったと言われるかもしれないけれども、でもそう思うんです。賢治もそう思ってたのじゃないかなと思います。
デクノボーの決意表明
高木 中村稔さんによれば、「雨ニモマケズ」は賢治の失敗を総括したもので、結局ヒデリの時も寒さの夏も何も出来ずオロオロしているだけだったと、そういう自戒の念だということですけれども、そういう部分もたしかにあるでしょうが、それと同時にやっぱり自分はやるしかなかったという部分があると思うんです。寒さの夏はオロオロ歩き、自分はどうしようもないんだという面と、そのオロオロというところからしか出発できないんだという側面を含んでいる、だからみんなにデクノボーと言われるけれども、やっぱり自分はそう生きたかった、生きるしかないんだということを、もう一回宣言しているわけです。それが結局「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」と言い切れた時に、自分を納得させたのだと思うんです。そういう自分の人生の総括のし方があったのだと思うのです。ですからそういう意味でもう一回読むと、これはやはりデクノボーの決意表明なのだと思います。だから今の自分には涙なくしては読めないという部分がでてくるんですね。何ていうか賢治は、こう元気づけられる部分と重い部分とがあるんですよ。
――重い部分というのは。
高木 つまり、賢治の生き方に重ね合わせて、自分が何かやってみようとする時に、結局お前に何ほどのことができるのだみたいな、そういう問いかけがどうしても世間から感じられてしまうし、……その問いかけは自分自身の中にもありますからね。
――でも賢治はそういう生き方やり方でないと、世の中変わっていかないんだという、そこまで思っていたからああいう生き方をしたのだと思いますが。
高木 だから、何ていうか世の中の賢治研究家という方をずいぶん知っていますが、はっきり言って僕はそういう方には大抵共感できないんですね。それはなぜかというと、研究家は賢治やその作品を研究してはいるけれども、それほど自分を、自分のいとなみをかけているとは思えないんですよね。賢治みたいに自分の人生と文学との間の、のっぴきならない関係みたいな中で仕事をしている人というのはいないです。
――そうですね。多くの文学者も科学者もそうですね。
高木 もちろん科学者は実験室の中に閉じこもっていて、今はお金に追われているでしょ。
科学技術文明の方向転換
――今科学というものが、本当に人間のためとか生き物のためとか地球のためとかならない、むしろ害になる方向に今いってしまっているという中で、高木さんは本当にみんなの幸福につながる科学の道というのを模索されて歩いてこられているわけなのですが、今のこういう科学文明の方向を転換していかなければならないという思いは、強くおありになるわけですね。
高木 そうですね、二十年前に孤立した中で考えていたよりは、地球全体の環境破壊が大きな要因になって、現在はこれまでの我々のやり方ではいけないのではないかという世の中全体の漠然とした雰囲気はかなり出てきているのではないでしょうか。
企業なんかでも地球にやさしいとか色々言って、それはそうでないよりはいいとは思いますが、しかしそういうかたちでまた環境を商売にしていくということをやってしまえば碌でもないことになってしまう。僕なんかは、いつもそこから一歩引いた所で、もっと市民的というか、一人の人間としてそのいとなみの中で科学をみていって問題提起できるようにスタンスをとれればいいなと思っています。
自分が変われば世の中が変わる
――原発の問題以外にしても環境の問題とか色々危機的な情況があって、地球全体はむしろ悪い方へいっているようにみえますが。
高木 悪い方向へいっているでしょうけれども、僕は評論家ではないから悪い方向へいっているということを一般的に言ってもしょうがないんですね。それを転換する方向にいくよう賭けるしかないわけで、そういう望みを最大限に拡げていくということしかないわけで、悪い方向へいっていると嘆くのが自分の立場ではないのですから、あまり悪い方向へいっていると言いたくないですね。もちろん悪い方向へいっているからやっているので、悪いのは百も承知なんですけれども。
――危機的な科学技術文明にストップをかける仕事を高木さんはやっていらっしゃるわけですが、そのやり方というのが賢治の志
向したものだということですね。
高木 我々の生き方というか、自然に対する考え方とか接し方、又次の世代への循環――いのちのつながり方ということについての根本的な転換が必要でしょうね。
今の我々の生き方というのは、自分が好んで生きているというよりは、システムの中で或いは企業が中心になってつくりあげた大量消費社会の中でさせられているという見方ができます。
――私たちはいのちを見失っていくような生き方をしているような気がします。
高木 そういう生き方を強いる社会全体が変わらなければいけないのでして、よく議論になるんですけれども、そういう個人の変革を言ったところで世の中のしくみとか政治を変えなければだめだとよく言われます。けれどもそれは両方変わらなければだめなので、自分が変われば世の中が変わるということではないでしょうか。世の中全体を変えることの努力の中で自分も変わるという相互的なものなのでしょうね。けれどもとりあえず我々の出来ることというのは、そういう世の中全体の変わる方向をみつめた上で、自分自身を変えるということではないかと思います。
――私たち自身の生き方の転換ですね。
高木 これは我々誰にでも出来ることなんですから。
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――終――
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[注1]羅須地人協会
宮沢賢治は大正十五年三月、農学校の教師をやめ、花巻町下根子桜の寓居で独居自炊の生活をはじめ付近を開墾耕作し、八月には同所に「羅須地人協会」を設立した。農村の青年たちに稲作法、自然科学、農民芸術概論などを講義し、花巻町とその近郊に無料肥料設計所を設けて、農村をまわって稲作指導をした。昭和三年八月、稲作を心配し、風雨の中を奔走して肋膜炎になり父母の元に病臥するまで、稲作指導に献身する生活が続いた。
[注2]中村稔氏の「雨ニモマケズ」論
「雨ニモマケズ」は病床にあって「心弱くも書き落した過失」にすぎず、そこに一貫してあるのは現実肯定の倫理であるとともに羅須地人協会からの全面的退却であり「農民芸術概論綱要」の理想主義の完全な敗北である。
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初出/「でくのぼうライフ」第6号、でくのぼう出版、1994年。
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