『おおきな木』

シェル・シルヴァスタイン 作/ほんだきんいちろう(本田錦一郎)訳
(篠崎書林)


紹介/文・今井

 

 一本のりんごの木と一人の男の子の物語。

 むかし、大きなりんごの木があって、ちいさな男の子と仲良しでした。木はそのぼうやが大好き。ぼうやもその木が大好きでした。ぼうやは毎日その木といっしょに過ごしました。だから木はとても「うれしかった」のです。

 けれども、時は流れ行き、ぼうやは「大人」になっていきます。男の子の足は次第に木から遠のいていきます。それでもまれに男の子が木のもとにやってくることはありました。でもそれは木といっしょに過ごすためにやってきたのではありませんでした。男の子は木にいろんなものをねだりに来ます。あるときはお小遣い、あるときは家、あるときは舟が欲しいと木に要求します。そのつど木は、自分のりんごの実、枝、幹をその子に与えていきます。だって木にはお金も家も舟も持ち合わせていませんから。自らの体を削って材料にしてもらうしか方法はありませんから。そして最後には木は切り株だけになってしまいます。

 木が男の子に与える度に、こう書かれています。

「きは それで うれしかった」
(And the tree was happy.)

 きっと木は大好きな男の子がそれで幸せになってくれるのなら、自分の体を与えることは悲しみではなく喜びそのものだったのでしょう。しかし、とうとう木の幹が切り倒され、男の子が舟を作って遠くへ行ってしまうときにはすこし違います。

「きは それで うれしかった…だけど それは ほんとかな」
(And the tree was happy… But not really.)

 そのとき木は本当は悲しかったのではないでしょうか。でも、きっとそれは自分の幹が切り倒されたこと自体が悲しかったのではないと思います。見返りを求めるというのでもなく、きっと男の子と心が通わなくなったこと、男の子の心がどんどん離れていってしまうことが木にとって一番つらいことだったに違いありません。

 母が子を愛するように、その木も男の子を愛していました。「愛する」ということはどういうことなのでしょうか。この物語の原題は“ The Giving Tree ” (『与える木』)です。本書あとがきにも記されているように、ここで思い出されるのは、エーリッヒ・フロムの「愛とは第一に与えることであって、受けることではない」という有名な言葉です。その「与える」行為には、しばしば「自己犠牲」のニュアンスを含めて見られがちですが、周りからどんなにそれが犠牲として見られても「与える」側の当人には喜びしか感じられないのが「本当の愛」なのかもしれません。

 しかし、しかしです。いくら与える喜びを木が知っているからといって、私たちは木を悲しませるようなことがあってはいけないと思うのです。 今の私たち人間の多くが、この男の子さながらに、木(自然界)からたくさんの恩恵を授かっておきながら感謝やいたわりの言葉をかけるどころか当たり前のような顔をして生きています。聞くところでは、自然界は人間と違ってマイナスの感情を持たないといいますが、人間があまりにも自然界の心に無関心なために、きっと自然界は深い悲しみで押し黙っているのではないでしょうか。 このお話の最後には、長い年月がたって舟で遠くへ旅立っていた年老いた「男の子」が木のもとへ再び戻ってきます。切り株だけになってもなお、「男の子」に何かを与えようとする木に、男はただ座って休む場所を求めます。そこで木は精一杯背伸びして切り株の腰掛けを「男の子」に差し出します。男はそれに従いました。それでやっぱり木は「うれしかった」のです。

 木の愛がずっと「男の子」に伝わっていたのでしょうか。

 「きは それで うれしかった」の一文で終わるこのお話はハッピーエンドなのでしょう。けれども、木が切り株になってしまわないうちに、ましてや切り株さえなくなってしまわないうちに人間が自然の心に気付かないと取り返しのつかないことになってしまいます。

 人間と自然界とが本当に心を通わしてお互いキラキラ輝ける世の中になるように、今度は人間が「与える」側になりたいものです。

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 本書の原文は中学生でわかるような平易な英語で書かれていますから、もし興味をお持ちでしたら、原文のリズムとイメージをぜひ味わってみられるとよいと思います。

THE GIVING TREE   by Shel Silverstein